はじめに
2019年の大晦日に,中国の武漢市で原因不明の肺炎が発生しているとWHO(世界保健機関)に中国政府から一報がもたらされた.
成田空港検疫所は出入国のラッシュ時期であることと,その年の夏にコンゴ民主共和国で発生したエボラ出血熱のPHEIC(国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態)がWHOから宣言されていた状況でもあることから,検疫所長として緊急事態に備えるため,年末とはいえ外出を控え,都内の自宅で待機しながら新年を迎えようとしていた矢先の出来事であった.
恐らく,この報に接した多くの国際保健や感染症対策に関わる関係者の頭を過ったのは,2002年11月に同じく中国の広東省で発生したSARS(重症急性呼吸器症候群)のアウトブレイクではなかったかと思われる.
後の調査で,中国産の野生動物種(ハクビシン,タヌキ,イタチアナグマ)からSARSの原因ウイルスに類似したコロナウイルスが分離されたことから,広東省の市場で売られていた食用のハクビシンのウイルスが,市場関係者に感染を繰り返すうちにヒトからヒトへの感染能力を獲得したのではないかとも言われるようになったが,真実は定かではない.
その後,SARSは北半球のインド以東のアジアやカナダを中心に感染拡大し,2003年3月12日にWHOから「グローバルアラート」が出され,同年7月5日に終息宣言が出されるまで,32の地域と国にわたり774人の死者を含む約8,000人を超える症例が報告されるに至った.不思議なことに,終息宣言以降は姿を消し新たな患者の発生などは報告されていないが,検疫感染症に指定され,現在もなお検疫所において警戒を要する感染症の1つとなっている.
武漢市の原因不明の肺炎のその後の経緯については,本書でも触れることになるのでここでは詳細は述べないが,SARS-CoV-2を原因ウイルスとする新型コロナウイルス感染症は瞬く間に世界中に感染が拡大し,ウイルスは変異を繰り返しながら5億2千万人の患者と6百万人の死者を発生させた(2022年5月現在).たった1つの感染症が全世界で既存の社会システムを破壊していく有様は,14世紀に欧州を中心に席巻した黒死病(ペスト)の再来を想起させるに十分なものと言えよう.
この国際的なパンデミックの中,わが国においても大流行が発生するに至ったことは,感染症の水際対策の担当官であった身として痛恨の極みであるが,この感染症の持つ性質が従来の検疫のシステムをすり抜けるために進化したのではないかと思われるほどに厄介なものであったことや,感染拡大の速度に法改正を含む検疫システムの改変が追いつけなかったことは不幸としか言いようがない.
さらにわが国においては,このコロナ禍の最中となる2020年にオリンピック・パラリンピック競技大会が首都東京で開催されることになっていたことが,水際対策を含め状況を複雑化させた.首都東京を守る成田空港検疫所にとっては,新型コロナウイルス感染症の水際対策と,オリンピック・パラリンピック競技大会の選手や関係者などの入国という2つの変数を持つ連立方程式の問題を与えられたようなものとなったのである.
本書では,この間に起こったことについても述べることになるが,非公表の事実を暴露するような意図はなく,再び同様の惨禍が発生した場合に備え,今回のコロナ禍への対応の経験から行うべきことは何かを提言として残しておくことを目的としている.当然のこととして,同じ状況を経験しても立場が違えば意見が変わることはあり得るので,本書で提言する内容もこれが絶対に正しいと言い切れるものではないが,読者の方々も自分ならどうしたか,あるいはどのような提言をするのかと考えながら読み進めていただければ幸いである.
当時は,なぜこんなに待たせるのか,どうしてこんなこともできないのかと,多くのお叱りをいただいたが,できないにはできないなりの理由があったのであり,そちらの事情についても可能な限りお示ししたいと考えている.
本書の内容は,基本的に当時取材に来た多くのマスコミ関係者に説明していたものであるが,いわゆる「尺の関係」でマスコミの編集権によりカットされ,報道されなかったものが多い.また,退職後に参加したシンポジウム(第8回 日経・FT感染症会議,第59回 日本医療・病院管理学会学術総会)で発表した内容も含まれているが,著作物として出版するに当たり,守秘義務に相当する内容については触れないよう改めて十分に注意を払ったつもりである.
なお,第1章については,直接的に新型コロナウイルス感染症とは関係のない検疫の話や成田国際空港に関する情報となっている.成田空港検疫所における新型コロナウイルス感染症への対応についての理解を助けるための予備知識として書いたものなので,すでに検疫や本空港について十分な知識を持った読者におかれては,読み飛ばしていただいても構わない.
欧州の中世社会は,ペストのパンデミックにより既存の権威が失墜し,人口減少は人権という概念を発展させ近世社会へと姿を変えたが,アフターコロナがどのような時代となるのかは定かではない.しかしながら,少なくとも検疫システムについては確実にその姿を変えるし,また変わらなければならないと考えている.
その姿がどのようなものとなるか,読者の皆さんとともに見届けたいと思っている.
2022年5月
田中 一成