まえがき
「先生の言うとおり薬をやめたらすっかり穏やかになりました。本当に有難うございました」
先日、外来診察中にある認知症患者の介護者が私にかけた言葉です。その患者さんは物忘れが気になるとかかりつけ医に訴えたところ抗認知症薬を処方され、使い始めてから急に家庭内暴力が出現したのを認知症が悪化したと判断されました。そして精神科入院を勧められ介護者に連れられて私の外来を訪れたのです。私は副作用が前面に出ている可能性が高いと考え、精神科入院はせずに薬をやめて様子をみるよう勧めました。すると家庭内暴力が速やかに消失したのでまるで神様のように感謝されたという次第です。
私は仕事柄知り合いに認知症を専門とする精神科医が多いのですが、だいたいどの精神科医も異口同音に「自分も同じような経験をしている」と言います。それだけ誤った薬の使い方のせいで被害を受けている患者さんが大勢いるということです。なぜこんなおかしなことになっているのでしょうか。
わが国の認知症高齢者の数は、2012年で462万人と推計されており、2025年には約700万人に達すると見込まれています。一般臨床医をやっていれば好むと好まざるとにかかわらず認知症の人を診ざるを得ません。しかし、医学教育のなかで認知症をきたす疾患(認知症性疾患)の系統講義が十分になされてきたと言えるでしょうか。認知症(痴呆症)の分類はアルツハイマー病、血管性認知症、両者の混ざったものの3種類、そして認知症の定義は治らないことである、という程度にしか教わってこなかったのが実情ではないでしょうか。認知症の知識が足りないから薬の使い方も間違うようになる。私にはそのように思えてなりません。
そこで、できるだけ客観的かつ具体的かつわかりやすい認知症テキストを一般臨床医向けに書くことにしました。事例紹介をしたほうが素人にはわかりやすいのでしょうが、それでは医師への説得力に欠けると考え、事例紹介はせず最新の臨床研究や系統的レビュー、すなわち科学的根拠を紹介することに徹しました。病態生理学はもちろん大事な科学的根拠なのですが、臨床研究や疫学研究によって得られた知見も医師にとって同じくらい大切な科学的根拠です。すなわち、ある病気に特徴的とされる症状が実際には何パーセントくらいの頻度で現れるのか、診断基準や検査は何パーセントくらいの確率で的中するのか、薬は何人に一人の割合で効くのかといった具体的な数字です。動物実験や遺伝子実験から得られた知見よりも、ヒトを対象にした研究である臨床研究や疫学研究から得られたこういった数字のほうが実際の臨床現場では役立つことが多いと思います。たとえばアルツハイマー病臨床診断基準の診断能(感度81%、特異度70%)、レビー小体型認知症の人に幻視が現れる確率(70%)、国内治験におけるドーパミントランスポーターシンチグラフィ(ダットシンチ)の診断能(感度70.0%、特異度90.9%)、コリンエステラーゼ阻害薬で著明改善する確率(42人に1人)、65歳以上の認知症の人に抗精神病薬を長期投与したときの死亡率(26-50人に1人)などです。これらの数字は臨床研究や疫学研究から得られた立派な科学的根拠であり、治療法を決断するときや病気の説明をするときに有用だと思います。
あまりに膨大なテキストでは読んでも頭に入らないと考え、日常診療に必要な情報だけを選び、できるだけわかりやすく書きました。ゆえに医師に限らず認知症に関心のある医療・介護従事者であれば、職種を問わずだれにでも理解しやすい内容にしているつもりです。
なお、本書では一般臨床医がまれにしか遭遇しない状態・疾患については触れていません。たとえば65歳未満発症の若年性認知症については一切述べていません。若年性認知症の患者数は日本全体で数万人程度であり、経済的な問題が大きい、家庭内での課題が多いといった特徴があり、一般臨床医が対応するのは難しい面もあるため、認知症専門医に紹介したほうが無難でしょう。また、進行性核上性麻痺、大脳皮質基底核変性症、プリオン病はいずれも認知症をきたすことがある難病ですが、日本全体における推計患者数はそれぞれ8100人、3500人、584人(厚生労働省.平成27年1月1日施行の指定難病 概要、診断基準等)とまれであるため、本書では触れていません。一般臨床医が診断したり対応したりするのは難しい面もあるので、神経内科医や認知症専門医に紹介したほうが無難でしょう。これらのまれな状態・疾患については成書を参照してもらえればと思います。
特定の立場からではなくできるだけ中立的立場から本書を書いたつもりですが、無意識のうちに偏向しているおそれは十分にありますので、私自身の利益相反について申し述べます。2018年現在、私は精神科病院に常勤の精神科医として雇用されています。また、私は日本精神神経学会の専門医・指導医および日本老年精神医学会の専門医・指導医・評議員です。いずれも精神科系の医学会です。これらの事情により、認知症の人の精神科受診を推奨する方向に無意識に偏っている可能性は捨て切れません。そこは割り引いて読んでもらえればと思います。
本書には、認知症の人に当たり前の医療を普及させたいとの思いを込めました。当たり前の医療と言っても難しいことはありません。認知症の人への当たり前の医療は一般臨床医に十分実践可能です。頭部MRIや核医学検査といった高度な医療機器がないと認知症医療は実践できないと誤解している人がいるかもしれませんが、本書を読めばその誤解は解けると思います。