序
人類は,病気の克服を目指して常に闘ってきた.そのなかで,ときに革新的な発明や発見が生まれ,それまでの医療を一変させてきた.これは,天才的先人の存在やその努力が実を結んだ結果でもあるが,幸運や偶然などが一役買っていることもある.例を挙げるならば,イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングによるペニシリンやリゾチームの発見がそれである.フレミングの発見により,感染症の治療薬が開発されて創薬研究が爆発的に盛んになる機運を生み出した.しかし,殺菌作用のあるリゾチームの発見のきっかけとなったのは,たまたま彼がくしゃみをした時に,唾液が飛んだ細菌培養皿の部位だけコロニーが破壊されていたのを見つけたことからである.またペニシリンは,散らかった実験室で黄色ブドウ球菌の培地にカビがコンタミし,その部位だけ細菌の生育が阻害されていたことに気づいたからである.時折自然界がみせてくれる謎を解く扉に気づくことで,大発見につながったのである.
20世紀初頭,フランスの医師アレクシス・カレルは血管の縫合術を発明し,血管と臓器の移植に関する研究でノーベル生理学・医学賞を受賞.これにより現在の外科手術の基盤となる再建医学が大きく進歩し,臓器の再建術をはじめとするさまざまな手術に応用されてきた.アレクシス・カレルによると血管縫合の技術は,リヨンの裁縫師や刺繍職人の技術を参考にした結果生まれたとのことである.
鼓膜再生療法は,2019年11月にわが国で健康保険の適用となった.本治療法の開発に20年近くの歳月を要したが,現在は本治療を用いて全国の病院はもとよりクリニックの外来診療でも鼓膜穿孔の治療が可能となった.鼓膜再生治療のきっかけになったのは,再生医科学研究所で細胞培養を行っていた時,培養液に添加する細胞成長促進物質FBS(仔牛胎児血清)の代わりになるものを探していたことである.臨床でも使用できる市販された成長因子は,bFGF(フィブラスト®;科研製薬)のみであったが,これを添加すると線維芽細胞の成長が非常に良かった.この実験からbFGFは鼓膜の固有層(線維層)を再生させるかもしれないというヒントを得た.さらに大きな鼓膜穿孔のパッチテスト(鼓膜穿孔閉鎖テスト)がテープでうまくいかなかったので,手元にあったゼラチンスポンジ(スポンゼル®;アステラス製薬)に4%リドカインを浸して孔を埋めてみると良好な聴力改善が得られたことが後に足場へとつながった.
当時は,頭頸部領域でさまざまな組織の再生研究を行っており,組織再生には,「組織工学の3要素である細胞・足場・調節因子そして良好な再生環境」という必須要素が常に頭を巡っていたので,足りない要素である細胞と良好な再生環境をどうするかを考え始め,細胞増殖のトリガーとして鼓膜穿孔縁の新鮮創化,そしてフィブリン糊による足場の被覆による湿潤環境の維持を選択し,良好な動物実験の結果を背景に臨床研究としてヒトに応用した.これらの偶然が鼓膜穿孔治療における再建医学から再生医学へのパラダイムシフトとなったと確信している.
臨床で初めて鼓膜再生を確認した時は,自分でも信じられず,患者とともに心底歓びをかみしめた.この後論文にまとめた鼓膜再生率は,98%(49例中48例)と驚異的な成功を収め,聴力改善に喜ぶ患者の笑顔とともにその後この治療を開発するための原動力となった.症例を重ねるにつれてさまざまなことがわかってきた.そのなかには,今までの再建医学の常識では考えらえないこともあり,一度は頭をリセットする必要があった.基本的な鼓膜再生療法の手技とともにこれまでの開発のなかから得られた知見をまとめたのが本書である.とはいえ,鼓膜再生療法は,まだ完成された治療法ではない.むしろ生まれてやっと独り立ちできた段階である.本治療がさらに発展して行くことを切に望んでいる.
この『鼓膜再生療法 手術手技マニュアル』が,患者とともに感動できる耳鼻咽喉科医の一助になれば幸いである.
2023年3月吉日
金丸眞一