はじめに
哲学者の池田晶子は、「医者と患者との間に、いま欠けていて、そして絶対に必要なもの、それは『対話』である」といっています(『魂とは何か』)。
「対話」の原義はギリシア語の「ディアロゴス」(ロゴスを交わす)です。この「ロゴス」はギリシア語では「言葉」であり「理性」という意味でもあります。
ただ言葉を交わしさえすれば「対話」になるわけではありません。当たり障りのない話をしても対話にはなりませんし、一方的に「あなたはこんな病気だ」と伝えるだけでも対話にはなりません。患者の方も医師がいうことだからと、理解も納得もできていないのに医師の言葉を受け入れるのでは、医師と対話をしたことにはなりません。
「この病気は死に至りうるものなのか」
「いつまで生きられるのか」
このようなことを問うのは恐ろしく、患者から切り出すことはできないかもしれません。医師の方も真実を伝えることをためらうでしょう。
しかし、池田の言葉を借りると、医師も患者も語らなさすぎるのであり、不毛な膠着状態に陥っていては、対話は成立しません。「一線」を超えられた時、医師と患者は信頼し合えると池田はいいます。
問題はこの一線の超え方です。治癒が困難で死に至る可能性が高くても、真実を包み隠さず伝える医師はいます。しかし、患者や家族がどう受け止めるかという想像力も共感能力もないままに、医師が一方的に一線を超えてしまうと、患者や家族はそのような医師をもはや信頼できなくなるかもしれません。
他方、医師からすればまったく恐れるに足らない病気であっても、伝え方の如何によっては、患者が絶望し、治療に意欲的に取り組まなくなるということはありえます。
医師と患者が信頼関係を取り結ぶことは容易ではありませんが、本書では、信頼関係を築くために、どんな言葉をどのようにかければいいかを具体的に考えていきます。
言葉をかける時に意識したいのは、本書の表題にもある「対等」ということです。今日、医師が上で患者は下だと考えるような人はいないでしょう。しかし、対等であるとはどういうことであるかわかっていなければ、患者にどう接することなのか、どんな言葉をかけることなのかを対人関係の技法としてどれだけ学んでも、一人ひとり違う患者にどう接すればいいか、いつまでもわからないことになります。
患者は、対等と見なされていると思った時、疑問に思ったり不安に感じたりすることがあれば医師にたずねることができ、丁寧に答える医師を信頼できます。本書では、対等とは何かについて考察します。
私は長く看護学生に生命倫理を教えてきました。臓器移植の問題など考察することは多々ありますが、中でも対人関係について時間を多く取りました。臨床の場面では、医学の知識は何よりも必要ではあるものの、それ以上に患者とどう接し、どんな言葉をかければいいか知っていなければならないと考えたからですが、残念なことに関心を持って講義を聞く学生はあまり多くありませんでした。
私自身が、よい対人関係を築くことが重要であることを知ったのは、三十代になって、オーストリアの精神医学者であるアルフレッド・アドラーが創始した個人心理学(日本では創始者の名前を冠してアドラー心理学と呼ぶのが一般的です)を学んだからです。
私の専門は古代ギリシア哲学ですが、その後、精神科の医院などで長くカウンセリングをしてきました。カウンセリングでは、言葉を慎重に選ばなければなりません。不用意な一言で患者との関係が破綻することがあるからです。患者との関係をよくするために言葉を慎重に選ぶことは、医師や看護師にとっても必要なことだと私は考えています。
医師は、今は治療する側であっても、いつ何時患者になるかわかりません。医師と患者は最初、それぞれ医師と患者という役割の仮面を被って出会いますが、役割を超えて一人の人間として医師が患者を、患者が医師を見ることができるようになった時、関係は変わります。
本書が、医師と患者がよい関係を築くためのヒントになれば嬉しいです。
2023年4月 岸見 一郎