まえがきにかえて
『病理診断の「リアル」を伝授します』というタイトルで,本を書いてみませんか.そんな手紙が届いたのは,2017 年1 月のことです.最初にぼくは,こうお返事しました.
「その他の執筆者の方々のお名前など,おきまりの範囲で詳細をお教えいただければと存じます」
自分はあくまで「共著者のひとり」なのだろうな,と考えていたことがうかがえます.まさか,単著で書くことになるとは思っていませんでした.
ぼくは,病理医を代表できるタマではないです.病理診断の奥深さを語ることなんかできません.病理には歴史と知性が山積み.まだこの世界に入って15 年弱しか経っていないぼくに,語り尽くせるものではありません.何往復もメールのやりとりが続き,息も絶え絶えになったぼくが,
「あくまでぼくがぼくのことを書く, 『いち病理医の「リアル」』でしたら書けます......」
と送ってから1年とちょっと.その通りのタイトル,その通りの内容で,本ができました.とりあえずめくってみてください.小学館と集英社と講談社から転載許諾を取ったページがそれぞれあります.豪華すぎてひっくり返るかと思いました.1 年前には思いもよらなかった展開です.読み物なのに「索引」があるというのもおもしろい.SNSだけでは達成できなかった見せ方に,書籍の凄さというのをあらためて感じています.企画・編集担当の程田さんには救われました.ツイッターで毎日なじられているので,優しいメールが来るたびに涙ぐんでおりました.ごめんなさい,今のはちょっと話を盛りました.
『いち病理医の「リアル」』は,その名の通り,ちっぽけな「いち病理医」の日常を書いた本です.病理医すべてを代表していません.病理診断の根幹を解説していません.けれど,いいよな,と思います.いち病理医が個人の視点で書いたもの,というタイトルなのですから.深夜の通販番組といっしょです.個人の感想です.
個人の感想,で思い出しましたが,ぼくは今まで,社会が持っている病理医という職業の印象にはちょっと困っていました.すぐ暗そうだとか言われる.治療もできないくせに何が楽しいのとか言われる.ちょっとツイッターやると,臨床医と違ってヒマそうですねって言われる.最後のは,完全にぼくが悪いですけれど,それにしても,「リアル」とあまりにかけ離れた世間の印象の数々には辟易していました.この本を書かせていただいたことで,社会の風評に対して一矢くらいは報いることができそうです.
元々は「医書」のくくりでオファーをいただいたのに,「個人のリアルだったらなんとか書けます」と言い放って執筆したぼくはひどいやつです.お値段が強気の設定なのは,企画段階では医療専門家向けだったからです.ごめんなさい.
けれど,程田さんはメールに書いてくださいましたね.
「『リアル』シリーズは,既存の医書の枠をどんどん壊してしまおう,よいものは,何でもアリ,のスタンスですので,先生のワールドをぜひご本の形で支援させていただければと存じます」
おかげさまで自分のワールドをあちこち見渡しながら,医書執筆という名のマラソンを無事走り抜けることが出来ました.まさに個人の完走です.すみません,言いたかっただけです.
この本の原稿を書き終わった直後,病理診断に関する講演をするためにモンゴルに行きました.背景の写真は,講演後にモンゴルの奥地で撮ったものです.悠久の大草原に補助輪で挑むいたいけな少女の写真と,医書の値段で一般向けの本を売り出すしたたかなぼくのイメージを重ねてどうする,と思わなくもないですが,程田さんはこの写真がとても好きだと言っていたのです.
まえがきにかえて 2017年11月2日
市原 真(病理医ヤンデル)