訳者序文
統計学は苦手だからと,タイトルに,「やさしい」,「わかりやすい」,「初歩の」,「入門」,「数式を使わない」などと付いたテキストを買い求めたにもかかわらず,挫折感のみが残ってしまったという嘆きはよく耳にする.得てしてこのようなタイトルの著書は基礎統計学を学ぶためのものである.ここからスタートすると,基礎=易しい,応用=難しい,という先入観に阻まれて,応用編に挑む気力は萎えてしまう.
十分に成熟した分野であれば,基礎は難しくても,逆に,応用は簡単である.例えば,初期の頃のコンピュータ(大型計算機)は一握りの専門家しか扱えなかった.コンピュータのハードやソフト,つまり,応用が進歩した現在,小学生でもパソコンを使いこなすが,コンピュータ理論やプログラミング言語の基礎を学ぶのは今でも難しい.
医療統計学は基礎統計学の応用であり,医学的研究を正しく行い,発表された結果を批判的に評価するための道具である.理想的な道具は,背後にある理論を意識することなく誰でも使えるものでなければならないが,医療統計学は,パソコン同様,未だ発展途上にある.新しいコンピュータソフトを立ち上げた途端,画面にワケのわからない警告文や選択肢が現れて先に進めなくなってしまった経験はないだろうか.道具として求めた側にとっては,多すぎる情報は迷惑でしかないが,これまでの医療統計学のテキストには,従来からの習慣やお節介で提供される基礎的情報が満載されていた.
本書は日々の診療に追われる臨床家が論文を読む時に必要か否か,という観点に立って書かれている.重要なのは解析手法の理論や実際の数値計算ではなく,その手法の適用法や結果の解釈であるという理念が貫かれ,「この部分は理解できなくても問題ない」,「この値は無視して,ただP 値を読めばよい」,「この手法は論文には滅多に出てこない」と,潔く切り捨てるやり方は,類書にはない画期的な試みである.
本書で扱われている統計学的コンセプトや手法は,医学研究で用途の多いものに限られている.また,数値計算をコンピュータに委ねるようになった現在,統計手法の難易度の判断基準も変わりつつある.基礎統計学のテキストには必ず登場する「t 検定」は,本書ではさり気なく扱われているだけである.もちろん計算方法やt 分布も出てこない.医療分野で,単純に,2 つの平均値を比較したいという状況は少ない.従って,論文にもあまり出番がないのである.一方,以前は初学者向けのテキストには載っていなかった信頼区間やオッズ比,生存分析などの説明に多くのページが割かれている.
統計学のテキストから数式が消えても,日常感覚とは異なった論理や用語の定義,コンセプトを理解するのは容易ではない.これを適切な具体例によって説明するには,深い統計学的知識と幅広い臨床経験の両方を要する.そこで,本書がターゲットとする読者と同程度の統計学的知識を持つと思われる臨床医が,統計学者とタッグを組んでこの難題に立ち向かっている.臨床医のみならず,看護師や薬剤師,理学療法士,栄養士など,さまざまなヘルスケアの専門家が,臨床の現場で遭遇する状況が例として豊富に用いられており,職種を問わず誰でも理解できるよう配慮されている.
過去に一度も統計学を学んだことがないという読者は,最初に本書を選ばれたのはラッキーだが,むしろ,既に統計の本が本棚に眠っているという人が多いと思う.諦めかけていた統計学に再挑戦するのにも本書は格好のテキストである.日本とは事情が異なるが,英国専門医試験のための対策も示されており,実用的な知識を効率的に身につけることができる.また,自ら,学会発表や論文投稿など,情報の発信者となる場合には,さらに専門書や,統計ソフトのマニュアルを読んで,それぞれの統計手法の詳細を理解する必要があるが,本書の「......の値の意味さえわかればよい」という誘導灯を頼りに進んでいけば,難解な統計用語や解析結果のわかりにくい言い回しの迷路から出られなくなる事態は避けられるだろう.
本書の翻訳を終えるにあたり,エイジェントを介して原著者との間で内容の確認などのご尽力をいただいた金芳堂の村上裕子氏に深謝する.
2009年9月
奥田千恵子