はじめに
事故率の低さを世界に誇る日本の新幹線.それが2003年2月26日,ある出来事で全国民が驚かされた.自動装置がかかり,新幹線が駅の手前で停止したのである.当時人々は,運転士が心臓発作でも起こしたのかと想像しただろうか.蓋をあけたら,運転士が居眠りしてしまったことが発覚した.駆けつけた職員に起こされるまで新幹線は約8分間停止した.秒単位での正確さが誇りの新幹線に8分間のロス,それがよりによって運転手の居眠りが原因.一般人が想像する以上に関係者はショックであったろう.折しもその日付が2月26日,平成の二・二六事件と呼ばれた.
居眠りした運転手を病院で検査したところ,睡眠時無呼吸症候群という疾患と判明し,その病気は一瞬にして世間に知られるようになった.それからこの疾患に国民の関心が集中し,街のあちらこちらに睡眠専門施設ができた.
この頃から睡眠障害といえば睡眠時無呼吸症候群と思われるようになった.睡眠時無呼吸症候群は日常生活の乱れと関連性があり,そのため現代病の1つと考えられている.ところが実際には,睡眠時無呼吸症候群が取り沙汰される遙か昔から,人類は不眠に悩まされていたのである.睡眠時無呼吸症候群に随伴して,不眠症を含めた睡眠医療全般が注目されるようになった.
筆者は耳鼻咽喉科医である.日本の大学病院で初めて睡眠専門施設ができたのは,2000年に創設された愛知医科大学睡眠センターであった.当時循環器内科医出身の塩見利明教授のもとで副センター長を務め,主に咽頭の手術を行っていた.その後2010年,名古屋市立大学でセンター長として部門の責任者になった.苦労を重ねながら睡眠医療センターを運営し,これまで避けて通ってきた不得意な分野も熟さざるを得ないなかで,やっと睡眠の「す」の字がみえてきた頃である.
この時期に,中日新聞の毎週連載する医療コラムで,睡眠について書く機会を与えられ,それを機に気付いたことがあった.睡眠医療が一般に,さらには医療者にも,あまり知られていないという現実である.
このコラムの連載がきっかけで,耳鼻咽喉科専門誌に携わる加藤百恵編集部課長が背中を押して下さり,本の出版が現実となった.耳鼻咽喉科医に睡眠医療の何がわかる,と思う専門家が多々おられるであろう.睡眠医療は,専門家が想像するほどには専門外の医療者に広がってはいない.ならば無知識だった私が睡眠医療を理解するようになるまでの経緯を語らせて頂き,一般医療者が平易にわかる睡眠入門書を書くことが使命だと感じた.
睡眠医療専門書は他にいくらでもある.しかしそれらの専門書を読む前に,睡眠医療を少し覗いてみようと思われた医療者のために,小説を読むような気持ちで読め,ここから睡眠医療に興味をもって頂けるよう書かせて頂いた.さらに本書に親近感をもって貰えるように,ほのぼのとした画風が持ち味の甥でもあるイラストレーター,中山信一氏に挿し絵を依頼した.
医療者に共通した使命として,患者の健康に最大の利益をもたらせることである.睡眠の良し悪しは健康の良し悪しに繋がるし,もっといえば睡眠にかかわらない医療はない.これまで学んだ医学はほぼ昼間に収集されたデータによるものであり,睡眠医療は未だ教育のなかで疎かにされている.世界の睡眠専門家が集まって,睡眠疾患を7つの領域に分類したICSD--3(International Classification of Sleep Disorders 3rd)がある.この分類で最初に列挙される二大疾患である不眠症と睡眠関連呼吸障害,一般医療者として最低限周知して頂きたい疾患である.この2疾患について,主に解説する.睡眠時無呼吸症候群は思ったよりも深刻な疾患であることを啓発するために,ICSD--3は睡眠関連呼吸障害と呼ぶようになったが,この疾患名はまだ一般に馴染みがないため,あえて本書では睡眠時無呼吸症候群の呼称で解説する.
なお,中日新聞社のご厚意により,2015年4月~2016年3月まで掲載された医療コラム「ぐっすり・Good Sleep」を本書で紹介する許可を頂けることになった.連載に際して多大なご尽力を頂いた佐橋 大記者,山本 真嗣記者に深謝する.
これまで睡眠医療についてご教授頂いた,かゆかわクリニック・粥川裕平院長,名古屋市立大学薬学部・粂 和彦教授,太田総合病院睡眠障害センター・千葉伸太郎所長,帝京大学ちば総合医療センター耳鼻咽喉科・鈴木雅明教授,そして歯科領域よりサポートして頂いた名古屋市立大学歯科口腔外科・渋谷恭之主任教授,同科・土持 師先生,アルスきょうせい歯科・宮尾悦子院長,いけもり矯正歯科・池森由幸院長,愛知学院大学歯学部・南 克浩講師,なかじま歯科クリニック・中島隆敏副院長,清水歯科クリニック・清水清恵副院長に万謝する.また,池松武之亮いびき資料館・研究所より貴重な資料を提供して下さった池松亮子先生には深謝する.
安心して仕事ができる環境を皆で作り上げ,筆者の最大なるサポーターである当施設のスタッフ(佐藤慎太郎医師,有馬菜千枝医師,福井文子医師,蒲谷嘉代子医師,安東カヨコバールドワジ技師,塚本佳世技師,中野那津子技師,岡崎 涼技師,河合晴世技師,西本敏史技師)に感謝する.
最後に,医師人生として路頭に迷っていたときに手を差し伸ばし,筆者をここまで導き,ご指導頂いた名古屋市立大学耳鼻咽喉科・村上信五主任教授に心より御礼申し上げる.
2016年クリスマス
名古屋市立大学睡眠医療センター,センター長
中山 明峰