はじめに
15年前,郡上八幡と越中八尾の町を訪ねたことがある.郡上八幡は,家々の格子戸のすぐ下を,美しい水が涼しい音を立てて流れ渡る町である.吉田川に掛かる橋の近くでは,郡上おどりと書いた白い提灯が川風に抵抗しながらなんとか静止状態を保っていた.時折,川風は,中村汀女の句が引用されているニッケ飴専門店の大きな暖簾を揺らし,平甚という頑固一徹の手打ち蕎麦屋の軒先を迂回して,また吉田川に戻り,さらに下流の長良川に流れていくのである.郡上よりやや北東に道を辿れば,町全体が緩やかな坂からなる八尾の町に着く.9月1日,風の盆を迎える出店の裏で,傾きかけた日差しが狭い路地に長い影を落としていた.清めの白布が軒下を覆った家々の路地隅には,所々に小さな石碑が見られ,おわらの歌詞を刻んでいた.この二つの町の踊りのテンポは大いに異なり,郡上のものは動的激しさを前面に押し出しているのに対して,八尾のものは内なる心を静かに表現していた.いずれの踊りも風に揺られる飛驒古川の和蝋燭の灯りのように,暗闇の中で風の息遣いに合わせて揺れなびき,その中でいつの間にか手が動いていた.ここでは,舞としての上肢が主役であるが,踏としての下肢がいち速くその動作の先取りをしているのである.この予測的姿勢調整は,指摘されなければ特に気付くこともない.しかし普段気付かれない事象でも,明らかにされて科学として認識されていく.
医学は実証科学の一つであるため,仮説を検証していくことが必要となる.検証の過程で,個々の事象を深く洞察していけば,身体の根底に流れる隠された自然の法則のいくつかを探り当てることは可能であろう.工学の分野では,定説から離れた事象,あるいは理論に合わない現象に着目することで,思わぬ新しい法則が見出せることがある.ノーベル賞を受賞した白川英樹氏は,それをserendipity(セレンディピティ)という言葉で表現し,これは偶然からうまく物を見つけ出す能力を意味する.医学の分野では,通常の処置では治癒しない病変が治癒した場合,それが定説に合わなければたまたま治ったのであり,それは科学ではないと言われてきた.しかし,偶然であるかに思える事象を,切り捨てたり過小評価することなく留め置いて,互いをつなぎ合わせることは大切である.この作業を通じて,力学的刺激に対する組織治癒に関する法則,無秩序の中での秩序,新しいパラダイムが手に入るかもしれない.
本書では,三人称としての膝から,膝そのものに視点を転じて,膝の内と外を眺めていただくため,膝を2視点で描こうと試みた.一つは膝という深海の中に深く潜ることで,そこを流れる海流がいかなるものかを探ろうとした.膝は自己修復能を持った知覚系運動器官である.部分的に問題が生じても致命的にならないように回復のシナリオを持った「考える膝」なのである.外科的処置も再生医療も,所詮は身体の治癒能を何らかのかたちで利用しているにすぎないのである.この膝の潜在能を十分に引き出し,生体の合目的治癒能を向上させるのが,自然治癒力を利用した医学の根本であろう.
もう一つの視点は,深海である膝から飛び出し,さらに大きな宇宙に思いを馳せることである.踊るという動作一つを例に挙げても,膝周囲の筋は膝を屈伸するためだけにあるのではなく,身体の動作を予測的に遂行するためにあると捉える見方が必要である.この点を考慮しない運動療法では,「膝頭で江戸へ行こうとする」という成句のように,苦労の多いわりには効果が少ないということになりかねない.膝はヒザのためにあるのではないのである.ア・ラ・カルトとしての膝ではなく,アンサンブルの構成要素として膝を眺め,かつそれを膝の側から考える試みを行った.
膝の情報活用・治癒過程のシナリオを少しでも垣間見る力は,読む人の想像力にある.読者の想像力を掻き立て,その右脳に呼びかけるために多数のイラストを配した.豊富な想像力を駆使して,言葉では表しきれない表現を適切に描画した村瀬弘美氏のイラストに,読者も「膝を打つ」ことであろう.Kyuro膝装具の開発者である三輪恵義肢装具士は,crossed four-bar linkage理論の理解を助けるために,説明用の模型を工夫して製作してくれた.毎朝,精神的な鼓舞を与え続ける川嶌眞人医療法人玄真堂理事長には,なんとかそのエネルギーの一部を打ち返すことができた.その他,お世話になった多くの方々に,深くお礼を申し上げたい.
高く跳び上がる遊牧民の踊りとは異なり,農耕民である我が国の踊りは,風の盆や郡上踊りに見られるように,繰り返しの律動的動作で大地を踏み締める.舞踊とは,身体の声を聞くことであると諦観される.大地を踏み躍動する身体の中に膝はある.この「考える膝」の声を本書の中で聞いていただきたいと願っている.
2002年1月
井原 秀俊