序文
「神経」(英語ではnerve、ドイツ語ではNerv)という言葉は、日本初の本格的な西洋医学書『ターヘルアナトミア』の翻訳書『解体新書』(1774年、前野良沢・杉田玄白ら)を訳す時に、オランダ語のzenuw(元々は、ドイツ人クルムス著の解剖図譜のオランダ語訳本)の訳語として作られた言葉とされている。神気と経脈からの造語であり、「神経」の言葉は日本から漢字の母国である中国に逆輸出されたという1)。神経系は、からだのすみずみまで張り巡らされており、ヒトをはじめとする動物の運動・感覚、高次脳機能を統括・調整する役割を有する、きわめて精巧に整備された体内情報システムと言うことができる。その神経系が病気や障害で侵されると、さまざまな症状(symptom)や徴候(sign)をきたし、日常生活の身体活動に制限や低下、減弱を招くことになる。
神経疾患の患者は、運動機能・感覚機能・認知機能が障害される場合が多く、そのために転倒・転落をきたしやすく、その結果、頭部外傷や四肢・脊椎の骨折などを生じ、いっそうの生活機能とQOLを低下させてしまう事態を招くことが少なくない。在宅高齢者の一般的な転倒率は約20%とされているが、神経疾患患者の転倒率は、進行性核上性麻痺64%、パーキンソン病60%、脊髄小脳変性症55%、多系統萎縮症41%、筋萎縮性側索硬化症35%、末梢神経障害43%とされる2)。このように神経疾患患者が非常に転びやすいことは、患者、家族、医療従事者ともに十分に認識している。そして、「神経疾患からくる症状の1つだから仕方がない」と思っている、あるいは思わされているのが現場の実情であろう。
しかし、一つひとつの神経疾患には、それぞれの原因となる神経系の病変部位があり、それに伴う特有の症状と徴候があり、転倒の仕方(転倒前・中・後の変化・動き・反応など)にも特徴がみられることが多い。そして、その特徴を明らかにすれば具体的な予防対策を講ずることによって、転倒をゼロにすることはできなくとも、せめて1/2~1/3程度に低減できると考えられる。
その転倒の特徴を明らかにする作業と具体的で有効な予防対策を講ずる作業で大切なことは、「多職種で 楽しく 多面的 」(3つの「た」)3)にアプローチすることである。転倒という事象が数多くの要素が複合して起こることから、医師を中心に看護師、理学療法士、作業療法士、薬剤師、放射線技師、ソーシャルワーカー、管理栄養士、事務職など、多職種の連携・協力により、多面的な見方・知識・技術を融合させることが求められる。しかも、難しい課題を皆で柔軟にかつ楽しく進めていくことが必要である。
ところで、オーケストラは、指揮者の振るタクトの下、弦楽器、管楽器、打楽器それぞれの奏でる音が協調されて、美しく壮大な交響曲(シンフォニー)を醸し出す。それと同様に、転倒予防という壮大な医学的・社会的な課題は、多くの職種の専門的な知識と技術と経験そして感性が集められることによって、初めて具体的かつ有効な対策への道が拓かれると考えられる。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」(井上ひさし)の言葉のように、神経疾患と転倒というきわめて難しい組み合わせと現場での困難な課題について、多職種の各執筆者には、情理を尽くした観点、すなわちhuman(人間性)にしてscience(科学)を大切にした姿勢と内容・表現で、それぞれの項目を執筆していただいている。全身のすみずみまで張り巡らされている神経系のように、本書全体のすみずみまで神経が行き届いた現場に役立つ構成・内容となり、明日からの医療・介護の業務に資する書として広く、長く活用されることを切に願っている。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大、国の緊急事態宣言の発令など、前代未聞の厳しい事態と各職場の多忙かつ困難な状況にもかかわらず、短期間で執筆・構成に協力していただいた各執筆者の方々には3名の編者(饗場、鮫島、武藤)を代表して厚く御礼申し上げます。また、学術的・社会的意義のある新たな視点の企画として、本書発刊の決断をし、迅速・適切な対応をしていただいた(株)新興医学出版社の林 峰子代表取締役と、細やかで適切な編集作業を担当していただいた同社の宮澤 咲さん・石垣光規さんに感謝します。
2021年1月20日
日本転倒予防学会理事長/東京大学名誉教授
一般社団法人東京健康リハビリテーション総合研究所 代表理事/所長
武藤 芳照
[文献]
1) 小長谷正明:神経内科─頭痛からパーキンソン病まで─(岩波新書 383):p10-14,岩波書店,1995
2) 饗場郁子:神経疾患患者の転倒を予防するために~チームで取り組む転倒予防~医師の立場から.神経治療学 33(2):245-249, 2016
3) 饗場郁子 編:根拠に基づく転倒予防Q&A.エキスパートナース 31(11):89-124,照林社,2015