序文
筆者が医師になった頃の当直で受けた病棟からのコールは,必ずといって良いほど,看護師から「患者が眠れないので薬を処方してほしい」というものであった.当時は,どこの病棟にも予備の睡眠薬が保存されたボックスがあり,そこから選んで患者に処方した.一般診療においても頻繁に,眠れないという訴えを聞き,それぞれの医師は自分の好みで処方慣れしている睡眠薬を迷いなく処方する.当時,睡眠薬とは精神安定剤のことであった.逆をいえば眠れないときは精神安定剤を用いれば良い,ということであった.精神安定剤で頻用されるエチゾラムは年間約12 億錠市販されている.日本国民一人あたり年間約6 錠服用していることとなる.他の精神安定剤を含めたら毎日数百万錠が市販されている.
だが,2018 年春の診療報酬改定がこれらの精神安定剤と呼ばれる薬物を麻薬・向精神薬に分類し,処方に抑制をかけた.そのため一般診療医はパニック状態となり,それが患者にも影響を及ぼしている.診療報酬改定の中に,向精神薬の長期投与や多剤処方から調整した場合には12 点加算されるとあり,減薬したら点数が加算されるという改定は斬新である.類似した改定が小児疾患にもある.感冒の場合,直ちに抗菌薬を投与するのではなく,症状に対してどのような対応をしたら良いかの生活指導をすると,12 点が加算される.今回のこの12 点の加算は,医療保険診療における歴史的な改革だと読み取れる.
戦後,高度経済成長期からバブル時代を経て,現在の日本は過去の負債を背負い低迷しながらも邁進している.医療も同様に薬品の開発と販売が激化し,同類の薬剤が数十あるという時代である.対症療法としての薬剤も多種あり,高熱が出るから解熱剤,痛みがあるから鎮痛剤,眠れないから精神安定剤など,数え切れない程開発されている.一方,年々寿命が延び,現在は100 歳の時代だといわれている.これだけ人類が長寿になって初めて,対症療法,特に向精神薬の扱いについては一時しのぎで出口がない,長期投与すると副作用で苦しむことを,時代が真剣に考え始めたのである.
小児については,安易に抗菌薬を投与すると後に耐性菌で苦しむことは保護者のほうがよく知っている時代である.しかし,長期に精神安定剤を投与すると,人はどのように副作用に苦しむかはあまり知られていない.不安だから眠れない,眠れないから精神安定剤を使う,しかし内服が長期になるとさらなる難治性の不眠に苦しむ・・・,そのようなことを患者は知るよしもない.
このことを招いたのは,睡眠医療の教育を受ける機会がなかった現在の医療者が存在することであると憂い,2017 年に書籍「睡眠医療を知る―睡眠認定医の考え方―」を作成し,「初心者にわかりやすい睡眠学」を書かせていただいた.その後,睡眠薬に対する法的規制が具体的に発生し,諸問題が論じられ,規制に対する対処を含めた不眠治療に特化した書籍を出版してほしいとのリクエストを沢山頂戴し,この度執筆させていただいた.
さらに,社会全体に睡眠の重要性を周知すべく,また,子どもたちに睡眠教育を施すことが睡眠障害への予防法と考え,2018 年には睡眠育成士認定講座を開設した.2019 年には睡眠育成士が50 余名誕生する予定であるが,各学校施設に睡眠の重要性を認識していただく働きかけをし,要請のあった学校には児童に睡眠教育のための講義をするのが認定講座の趣旨である.今後この活動が広がることを願うばかりである.詳細は巻末付録をご参照いただきたい.
いつの時代も人類は不安に悩んできた.それを容易に解決するかのように見える薬剤に規制がかかる理由は何か,そして,これからの睡眠治療のあり方,良き睡眠とは何かを,睡眠医療に直接関わらない医療者にも考えていただくきっかけになればと思い,叱責を頂戴することを覚悟のうえで本書の作成を試みた.ご意見をいただけたら幸いである.
2019年4月
名古屋市立大学睡眠医療センター長
中山明峰