はじめに

ナッジ（nudge）とは，“ヒジで軽く突く”という意味であり，行動経済学や行動科学分野において，“選択構造”という“選択肢を提示する形”を利用して行動変容を促す戦略のことである．つまり人々が強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法のことである．そのコンセプトは，2008年にシカゴ大学のリチャード・セイラー（Richard Thaler）教授とハーバード大学のキャス・サンスティーン（Cass Sunstein）教授により発表されたが，ナッジの例としてよく知られているのが，アムステルダム・スキポール空港の小便器内側に描かれたハエである．“人は的があるとそこに狙いを定める”という分析に基づいてハエを描いた結果，清掃費が2割も削減されたのである．ナッジはすでにさまざまなところに応用されており，コンビニの商品の配置などは有名であろう．一番よく売れる商品を人の目の高さに置き，売れるものと関係する売りたいものを近い場所に並べ，定番商品は同じところから動かさないなどの仕掛けがされている．ナッジの優れているところは，名前のごとく決して強制はせずに，また報奨や罰を与えることなしに本人の選択に任せるところである．

医学領域でのナッジ戦略の成功例を示す．高血圧は多くの循環器疾患のリスクであり，高血圧にならないためには減塩が重要であることは世界共通である．英国でも循環器疾患の発症を減らすために長年減塩活動をしてきたが，思うような成果は上がらなかった．いくら減塩の重要性を叫んでも，減塩によって食事がまずくなることを嫌がり，企業も国民も減塩には非協力的であった．そこで，医学者や栄養学者が設立した“CASH”（塩と健康に関する国民会議）という機関は“味覚は慣れで変わる”ことを実例で示し，段階的な減塩を提案した．毎年気づかれない程度に少しだけ塩分を減らしたパンを作っていったところ，結果的にはパンの消費量は減らずに，1日の食塩摂取量は2003年の9.5 gから2011年には8.1 gに減少した．その結果，血圧が下がり，心疾患や脳血管疾患の死亡率も下がった．この戦略は世界的に最も多くの食塩をとっているわが国でも適用可能であろうし，減塩に限らず，肥満予防としての摂取する砂糖や総カロリーの減量，さらには禁煙，運動，検診，ドナー登録にも応用可能ではないであろうか．

本特集がひとつの契機となり，ナッジ戦略でわが国の健康長寿が達成されることを期待したい．

東京大学大学院医学系研究科循環器内科学
小室 一成