はじめに
正しいのかフェイクなのかわからない情報がネットやSNS であっという間に広がる今の時代、科学的な思考・知識・手段によって保健医療情報を冷静に吟味する能力(ヘルスリテラシー)がますます必要になってきています。ヘルスリテラシーとして身につけておくべき重要な知識のひとつがプラセボ効果です。この言葉は少しずつ社会に浸透しつつありますが、その特徴や医療における意義についてはあまり知られていません。そこで、印象的なマンガと学術文献に基づく解説を合わせた入門書を、医療者、患者、そして消費者に向けて発信することにしました。
プラセボ効果は、医療を提供する者だけが知ることを許される隠し武器のようなものであってはならないと思います。医療を受ける者および健康関連商品を購入する者も十分にその知識を持ち、情報が共有された状況で対話を通してその活用方針が決められるべきものだと考えています。プラセボ効果研究の第一人者であるBenedetti は、プラセボ効果の科学的知見がインチキ療法の科学武装に悪用されないよう監視すべきである、と警鐘を鳴らしています(Clin PharmacolTher 2019;106:1166-8)。そのためには医療を提供する側だけでなく受ける側も含めて、社会全体にプラセボ効果の知識が広がる必要があるのです。
本書はマニアックな内容を含む解説もあるものの、基本的には総論ですから、個別の疾患や特定の患者集団に応用するための具体的な手法や倫理的な論点などについては書き尽くせていません。したがって、本書を読んでプラセボ効果のすべてを理解した気持ちになって、マンガと解説から得た知識を拡大解釈して即臨床応用するのは危険です。プラセボ効果について今までにわかっていることの多くは、健康な被験者を用いた実験室での実験によるものであり、患者さんのためにプラセボ効果を積極的に利用するためには、もっと多くの臨床研究に根差したエビデンスが集積される必要があります(Finniss DG, et al. Lancet 2010; KaptchukTJ, et al. N Engl J Med 2015)。したがって本書はあくまでもプラセボ効果とノセボ効果の概要を理解し、議論や思考を深めるための第一歩として読んでいただきたいと思います。
また本書は、プラセボ効果の基礎研究や作用メカニズムについてはあまり触れていませんし、今までしばしば話題とされてきたような劇的なプラセボ効果の逸話もほとんど紹介していません。むしろ今日の医療現場や日常生活において遭遇しやすいと思われる身近な現象を題材にして、学術文献に基づいたシナリオをマンガ化し解説しました。一部に例外はあるものの、なるべく良質のランダム化比較試験、システマティック・レビューおよびメタアナリシスによって示された信頼性の高いエビデンスに基づいてストーリーと解説を展開するよう努めました。マンガの舞台が鍼灸院なのは、鍼治療がプラセボ効果研究の恰好の題材として用いられてきたからであり、学術界で話題となった多くの有名な論文があるからです。誤解していただきたくないのですが、鍼=プラセボというのではなく、すべての治療行為や健康法にプラセボ効果は付いてきます。そのあたりの事情は本書を通読していただければご理解いただけると思います。
なお、このマンガと解説は月刊誌「医道の日本」に2019 年4 月号から2020 年7 月号まで掲載されたシリーズを加筆修正したものであり、さらに児玉和彦医師に日常診療からの視点を加えていただきました。マンガに出てくる寺院や教会については十分な考証に基づいていませんが、特定の宗教を優先したり茶化したりする意図はまったくありませんので、その点ご理解ください。
それでは、クオリティーの高いマンガであるとともに現時点で最新のプラセボ効果の知識を盛り込んだ画期的な入門書をお楽しみください!
令和三年初夏 水都大阪にて
森ノ宮医療大学大学院保健医療学研究科研究科長・教授
山下 仁