はじめに
筆者が眼科医になって間もない頃,先輩から遠近両用眼鏡の処方方法を教わった.遠方が見える矯正度数と近方が見やすい矯正度数を併記する,いわゆる二重焦点レンズの処方であった.早速,患者さんに遠近両用眼鏡の処方を行った.遠用と近用の度数差は+2.50 D であった.2 週間ほど後に,その患者さんが「この眼鏡は掛けると気持ちが悪くなって,とても掛けられない」と訴えて再来した.眼鏡は二重焦点レンズではなく,累進屈折力レンズで作製されていた.累進屈折力レンズの知識は全くなかった.患者さんを待たせたまま,眼鏡店に走った.眼鏡店の主任さんが累進屈折力レンズのテストレンズセットを貸してくれた.それを持って外来に戻り,待っていた患者さんに試してみた.加入度数+1.50 D で満足してもらえた.累進屈折力レンズの処方には,テストレンズが必須であることを学んだ.
眼科医になって3 年目の頃,遠近両用累進屈折力レンズ眼鏡を処方した遠視の患者さんに,「眼鏡を使うようになってから,ひどかった肩こりがなくなったが,そのようなことはありますか?」と問われた.筆者は返答ができなかった.その後,数名の遠視患者さんに眼鏡処方後の肩こりについて質問してみた.異口同音に「そういえば肩こりを感じなくなった」と返ってきた.私事であるが,筆者は子供の頃から2.0 の視力があって,40 歳頃までは正視であったが,中学生の頃から眼は疲れやすく,肩こりがひどかった.筆者の肩こりも眼鏡で解消できるかもしれないと思い,遠用度数±0.00 D で加入度数+0.75 D の累進屈折力レンズ眼鏡を装用してみた.すると,激しかった肩こりを全く体感しなくなった.当時,筆者は35 歳だった.ちょうどその頃,眼科雑誌で“シューベルトの眼鏡”についての記述を見つけた.31 歳で他界したオーストリアの作曲家フランツ・ペーター・シューベルトが二重焦点レンズの眼鏡を掛けていたというものである.もしかすると,シューベルトも遠視だったのかもしれない.
20 年以上前のことだが,湖崎 克 先生と遠視について雑談したときに,湖崎先生も40 歳くらいまでは正視だったが,当時は遠用度数+3.00 D 加入度数+3.00 D の遠近両用累進屈折力レンズ眼鏡を装用されており,「遠視ほどやっかいな眼はない」,「諸悪の根源は遠視」とおっしゃっていた.筆者自身も現在は,遠用度数+2.50 D 加入度数+3.00 D の遠近両用累進屈折力レンズ眼鏡を使用している.“諸悪の根源”の意味が少しずつわかってきた.眼の屈折値は加齢に伴って遠視化することを症例でも自らも体験し,裸眼でよく見える遠視のつらさと,矯正の難しさをずっと感じてきている.よく見える眼に対する眼鏡処方の必要性について記述した教科書は存在しない.
遠視に快適な眼鏡を処方するのはとても難しい.近視の過矯正を改善するのは遠視を矯正する以上に難しい.しかし,どちらも激しい眼精疲労を訴えている症例が多い.
1980 年代にパソコンが普及し,眼精疲労を訴える患者さんが急増した.原因は,長時間の近方作業による毛様体筋の疲労であった.しかし,それを診断する適切な他覚的検査装置はなかった.毛様体筋の筋電図がとれれば診断ができると思ったが,実現できそうになかった.その頃,興味をもって研究していた調節微動が毛様体筋の筋電図に代わるのではないかとの思いで開発したのが調節機能解析装置である.毛様体筋の活動状態が他覚的に検出できた.毛様体筋の疲労が原因の眼精疲労を検出し,点眼液や累進屈折力レンズ眼鏡で治療できるようになった.
2010 年代になるとスマートフォンが普及し,眼精疲労を訴える症例はさらに増加した.巷では“スマホ老眼”と警鐘を鳴らしている.この眼精疲労には毛様体筋の疲労に加え,過剰な輻湊負荷による外眼筋疲労も加わっている.プリズム加入の累進屈折力レンズ眼鏡が奏効することもわかってきた.一方で,コンタクトレンズの普及もめざましく,眼鏡ではなく,コンタクトレンズで矯正したいという症例も多い.対応に苦慮したが,意外にもモノビジョン矯正が奏効することがわかった.
良好な視力を提供する矯正は容易であるが,眼精疲労を予防する快適な矯正を提供することはとても難しい.なぜなら,遠くがよく見える矯正を希望する患者さんは多いが,現代のような情報化社会では,遠方がよく見える矯正は必ず眼精疲労を発症するからである.良好な視力だけではなく快適さを提供するためには,矯正用具の種類によって異なる特徴を最大限に活用できる処方の研鑽を積むことが必要である.本書がその一助になれば幸いである.
本書は今まで多くの患者さんに教わった,眼精疲労を訴える症例に対する眼鏡やコンタクトレンズの処方手技を眼科外来診療に携わる多くの医療関係者に伝えたい思いで執筆した.本書の出版を提案,企画,そして編集に尽力いただいた三輪書店の久瀬幸代氏に深謝する.そして,眼精疲労の治療に関する適切な教科書がない中で,筆者にとって患者さんは最良の教科書であった.気長に治療に付き合ってくれた患者さんたちに感謝している.
2018年 4月
梶田雅義