序
日本にドライアイという病名が紹介されてから約30 年,日本におけるドライアイの理解は長足の進歩を遂げてきています。この間,日本の最初のドライアイの定義と診断基準(1995 年版)は2 度の改訂(2006 年版,2016 年版)を経て,現在の2016年版となっています。1995 年版では,ドライアイの自覚症状が重視されておらず,2006 年版では,定義と診断基準に自覚症状の項目が入り,ドライアイは涙液層と眼表面上皮の悪循環,すなわち慢性疾患として捉えられるようになりました。そして,現在の2016 年版の定義と診断基準は,自覚症状の重要性を維持したまま,涙液層の安定性の低下,すなわち涙液層破壊時間(breakup time:BUT)が短いことが,ドライアイを健常眼と区別する上で非常に重要であるとしています。
現在,ドライアイは加齢,性,疾患やその治療,ライフスタイル,生活環境といった危険因子が角膜表面の涙液層の安定性を低下させ,眼不快感,視機能異常にかかわる症状を引き起こす疾患として理解されるようになりました。そして,日本においてドライアイの画期的な治療薬である,ジクアホソルナトリウム点眼液やレバミピド点眼液が生まれたことが,ドライアイの診療に革新的な進歩をもたらし,ドライアイの世界において日本は世界の先進国といえるまでになりました。
外来でドライアイの患者さんを前にされて,皆様はどのように患者さんと向き合い,治療を考えられておられるでしょうか? 私たちのドライアイの専門外来を考えてみると,本書で皆様にご紹介する眼表面の層別診断(TFOD:tear film orienteddiagnosis)が開発される以前は,専門外来のメンバー1 人1 人が,必ずしも共通した診断を基に治療を決めているわけではありませんでした。しかし,TFOD が開発されてからは,1 人1 人が同じ根拠でドライアイを診断できるようになり,同じ治療を選択できるようになってきています。つまり,ドライアイ診療における共通言語がTFOD・TFOT(tear film oriented therapy)といえるのです。そしてTFOD に慣れると,もはや別の診方に後戻りすることはできません。圧倒的に診断が早くなり,的確な治療が選択できるようになります。そして,治りにくい患者さんの眼の表現型が明確にわかるようになります。
ドライアイの患者さんの訴えには,目を開けているのがつらい,すなわちBUT が短いために開瞼を維持しづらいことに基づく訴えがあります。これは第一に重要なドライアイの症状といえ,涙液が角膜表面に広がって安定し,角膜上皮細胞を大気の乾燥ストレスから守る働きをもつためです。そして,瞳孔領における涙液層の安定性は開瞼維持時の視機能を維持してくれます。
しかし,それだけでしょうか? ドライアイの患者さんは,瞬きをしてもつらいことがあります。涙液は,涙液層として眼表面を被覆する以外に潤滑剤として働いて,瞬目摩擦から眼表面を保護してくれています。したがって,涙液量が少ないドライアイのサブタイプ,すなわち涙液減少型ドライアイでは,涙液層の安定性が低下するとともに瞬目摩擦が亢進して摩擦に関連した眼症状である異物感や眼痛を訴える場合があります。また,BUT が正常でドライアイと診断されなくても,瞬目摩擦が亢進する眼表面疾患を合併していると,ドライアイとよく似た眼不快感を訴える場合があります。したがって,TFOD・TFOT の考え方に習熟すると,これら瞬目摩擦が亢進する眼表面疾患の合併やその存在にも目が向けられるようになり,それらを的確に看破してドライアイをさらに効果的に治療できるようになります。
本書では,最近皆様もよく耳にすることがあると思われるTFOD・TFOT のコンセプトを日常診療に役立てていただけるよう,実際の症例をふんだんに紹介しながら,できるだけ平易に解説するよう努めました。TFOD は,その理論を学んで一応は理解できたと思えても,実際の臨床例をみると,どこにポイントを置いてみたらよいのかわからなくなるといったご意見をしばしば耳にします。本書においては,皆様に寄り添いながら,あたかも横で説明を受けていただいているように,とにかくわかりやすく解説することに力を注ぎました。きっと本書を通じて,TFOD・TFOT の考え方の面白さをわかっていただけ,日常診療で経験されるドライアイをまるでパズルを解くように理解できるようになり,患者さんと一緒にドライアイを改善していけるようになることでしょう。
本書を通じてTFOD・TFOT の考え方を完全にマスターしていただくことで,ドライアイの患者さんに的確な説明と最適の治療を選択していただくことができれば,筆者としてこれに勝る喜びはありません。本書は,きっと数日あれば理解でき,TFOD・TFOT を楽しめるようになると思います。ときどきはスマートフォンやタブレット端末を使って動画による代表例や練習問題でTFOD・TFOT のエッセンスを思い出していただきたいと思います。本書はまだ完成版でないところも一部あるかと思います。皆様からご意見をいただくことで,私もTFOD・TFOT のコンセプトをさらにバージョンアップしていければと思っています。
最後になりましたが,このコンセプトの発展に力を貸して下さっている皆様にこの場を借りて感謝申し上げます。
海を越えて,アジアから広がりつつある日本発のTFOD・TFOT の考え方が,世界に大きく広がることを心から期待しています。それでは,最初のページからお楽しみください。
2020年3月
横井 則彦
京都府立医科大学 病院教授