序

生命科学研究は今，大きな転換点を迎えている．かつては個別の生体分子を対象とした研究が主流だったが，今や組織内や細胞内の多様な分子を網羅的に解析するマルチオミクス解析が，生命現象の本質に迫るための強力なアプローチとして確立されつつある．わずか10年前，マルチオミクス解析は一部の先端研究室でのみ実施される最先端技術であった，しかし，次世代シークエンサーや質量分析計などの解析機器の革新的進歩，実験プロトコールの標準化，そしてユーザーフレンドリーな解析ソフトウェアの普及により，現在では多くの研究者がとり入れる標準的な研究手法へと進化を遂げた．特に近年では，各オミクス解析のコストダウンや共同利用施設，共同研究などにより，1つのプロジェクトで複数のオミクスデータを取得することが一般的である．

しかしながら，マルチオミクス研究を実践するには，依然としてさまざまな課題が存在する．サンプルの調製から測定，データ解析，そして生物学的な解釈に至るまで，各段階で高度な専門知識と技術が要求される．また，実験系（ウェット）と情報解析（ドライ）が如何に融合して解析を進められるかがマルチオミクス解析の鍵となる．

本書は，2020年5月の特集号，2023年9月の増刊号に寄せられた「マルチオミクス研究の具体的な進め方を知りたい」という読者からの声に応え，より実践的な解説書として企画された．第2 章では最新の測定技術，第3 章では解析技術，そして第4 章では具体的な応用例を，それぞれ詳細に解説している．各章では，実験計画の立案から具体的な実験手順，データ解析のポイント，さらには結果の解釈まで，実践的なノウハウを惜しみなく盛り込んでいる．

マルチオミクスの分野は日進月歩であり，個別の技術は急速に進歩していくが，研究戦略の立て方や実験デザインの基本的な考え方は，時代が変わっても普遍的な価値をもち続けるのではないかと考えている．本書では，各研究分野を代表する専門家の先生方に，これらの基本的な考え方を解説していただくとともに，最新の技術動向も踏まえた内容となるよう心がけた．

本書がマルチオミクス研究実践の入門書として，また実践的なガイドブックとして，読者の皆さまの研究に新たな展開をもたらすことを願っている．さらに深い知識を求める方々には，個別の技術について専門書や原著論文などで学びを深めるきっかけとなれば幸いである．

最後に，本書の執筆にご協力いただいた多くの先生方に心より感謝申し上げる．

2025年2月

東京大学先端科学技術研究センター/ 東京大学大学院工学系研究科化学生命工学専攻/東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻
大澤　毅
東京科学大学総合研究院難治疾患研究所
島村徹平