緒言
身体ネットワークから保存療法を考える
私達は,余りにも個々に分断された社会に生きているのであろうか.科ごとに区切られた診療科,生老病死の環から外れた医療施策,環境問題から切り離された食卓の食べ物.目の前の事象と想像もできない程に連結する目に見えない事象.しかし,目を少し遠くに向け想像力を働かせれば,指摘されなくても,互いに影響を及ぼし合う複雑な系の中で生きていることに気づかされる.
関節も然りである.関節を個別に見ることを当然とすることにいかに慣れてしまっていることであろうか.膝に視点を置いた場合,膝伸筋力・屈筋力,膝位置覚,膝関節可動域などで表された機能が,単独で日常動作の中に組み込まれることは少ない.切り取った間接的な値は,配線という根っ子をもぎ取っての評価である.この観察値をさかのぼれば,多関節運動連鎖の中で相互に連結された機能があり,神経,脈管,液状因子に介された多臓器間のネットワークが巧妙に絡み合うシステムに行き着く.
身体の信号網を力学的情報のネットワークとすれば,関節は多数の力学的情報を収集,統合,発信するハブの役割をしている.ハブの大きさは関節によって異なっていよう.これが非平衡開放系に属する多関節運動連鎖である.運動連鎖のおかげで,円滑な運動性,動作の補完性,支障時の代償性が保証されている.
名優である高峰秀子がその随筆の一説に,ともすれば忘れがちな多関節運動連鎖を言い当てている.『若い俳優さんたちは,老け役というとすぐに腰を曲げるか,ガニマタになるか,歩幅を盗むか,などと安直に片付ける.しかし私は,なぜ,どうして,そういう状態になるのか?が納得できなければ「イヤなんだ」という執念深い性質である.はじめての老け役のときも,整形外科医の診察室へ駆けこんだ.人間の老いの兆候は,背骨を支える背筋の衰えからはじまる.背筋が弱ると背骨が前に曲がるから,姿勢が崩れて真っすぐ立っているのが苦痛になってくる.自然に胸が引っ込み,同時に顎が前に出る.顎を引けばバランスを失って,そのままツンのめって転んでしまうからである.若いときにはつま先で歩いていたのが,重心がうしろに移動するにしたがって踵で歩くようになる.徐々に足と足の間が広がり,今度はおなかが出てくる...』.
多関節運動連鎖に加齢的影響が加われば,ネットワークの様々な部位が影響を受ける.変形性関節症に対する保存療法においては,個々の関節を治療しつつ,身体のネットワークの代償や綻びにも目を向ける必要があろう.保存療法は,学会発表や論文で繰り返し述べられる常套句,手術療法で述べる前の枕言葉でもある「保存療法に効果なく」という,十把一絡げで処するようなものでは決してない.保存療法は深い森を配する山に例えることができよう.その山頂に立てば,いくら嗅いでも無臭の空気に浸され,その中を,天をさまよい,地を眺めた風が,肌をかすめて渡って来る.微香な木の精,花の香,苔の湿りが,手に取るように展開する.多彩な治療手段を宝蔵として含んでいるのが保存療法である.古来の英知である手術をしないで治す療法を,身体のネットワークという新たな視点から掘り起こすことで,保存療法に含まれる宝蔵を本書と読者との場の力で引き出せたらと願っている.
井原 秀俊
運動器疾患理学療法のパラダムシフトを目指して
―新たな"思考"は新たなる理学療法につながる―
関節軟骨や関節構成体の退行変性によって起こる変形性関節症は,国内では関節リウマチの約10倍の700万人から1,000万人の患者がいると推定されている.1,000万人といってもピンとこないかもしれないが,例えば,現在の国家資格を有する理学療法士が約5万人とすれば,単純計算すると「実に理学療法士1人当たり200人の患者を診ることになる」といえば変形関節症で苦しんでいる患者の数が如何に多いかがお分かり頂けるだろう.近年,理学療法関連の学術大会をみていると,変形性関節症に対する理学療法の考え方も大きく変化してきた.本書のテーマでもある「多関節運動連鎖」の視点からみた理学療法の様々な取り組みである.具体的には,従来の罹患関節のみにウエイトを置いた視点から,姿勢や動作といった全身的視点も加味した隣接関節重視の理学療法の実践的研究である.しかし,現時点においてインターネットで「多関節運動連鎖」というキーワードで検索しても該当する書籍は見あたらない.さらに,本書のサブタイトルでもある「刷新的理学療法」の「刷新」とは,今までの事態を改め新しくするという意味である.つまり,従来の変形性関節症に対する古典的な理学療法の考え方を「多関節運動連鎖」という新しい視点で障害像をとらえ直し,理学療法のパラダイムシフトを目指すべくまとめ上げられたのが本書である.また,本書の特徴として,臨床の最前線で活躍している医師と理学療法士がパートナーとなり,それぞれの専門的立場から,変形性関節症に対する保存療法戦略について解説している.日々の臨床において,変形性関節症に対する理学療法(保存療法)で行き詰っている現職の医師,理学療法士の方を始め,これから骨関節疾患について勉強しようとしている医学生,理学療法学生にも,是非,読んで頂きたい一冊である.
加藤 浩,木藤 伸宏
2008年4月