序
医学領域はもとより生命科学全般において,ヒトの地球上での存在にかかわる"自己と非自己"の認識に始まり,"監視と排除"そして"寛容と共生"にかかわる生命現象を分子,細胞,個体レベルで明らかにする免疫学は,高次複雑系からなる生命体の解明において中核的位置づけにあるといっても過言ではない.その学問的体系の構築とその成果は,感染症,アレルギー,自己免疫疾患克服へ向けての臨床応用に結びつく理論的基盤の形成にも貢献してきた.
免疫学創生は1796 年のEdward Jenner による天然痘ワクチン投与に始まるといわれている.それ以来,体の中に病原体など多種多様な異種有害抗原が侵入または取り込まれた際に,それを非自己と認識し,排除する免疫システムの解明が,末梢リンパ節,脾臓を始めとする体内にある免疫担当臓器からなる全身免疫を中心として進められてきた.つまり,今日までの免疫学研究の潮流は血中もしくは体内組織・臓器に侵入した病原体に対しての自然・獲得免疫系の分子・細胞・個体レベルでの免疫応答について,先導的研究が中心となって進められてきた.しかしながら,実際に病原微生物が侵入し,アレルゲンが取り込まれる状況は,われわれ自身が生命体維持に必要な生理的行為,つまり"食べる,飲む,吸う"さらには種の存続のために行う性行為により起こる.その場所は,生体の"内なる外"を形成している口腔,鼻腔に始まり,呼吸器,消化器,生殖器に代表される粘膜で覆われた生体の表層であり,そこには直接かつ恒常的に外界に曝露されている生物学的環境に適応した免疫機構が発達していることが経験的に知られていた.
1970 年代からその基礎的解明が細胞生物学,分子生物学,生物工学,ゲノム医科学,構造生物学,イメージング工学など,その時代の変遷とともに発達してきた免疫学周辺異分野の最新理論や技術を導入して進展するのと並行して,その学問的体系が確立され,その実態が明らかになってきた.これが"粘膜免疫システム"であり,広大な表面積を有する"内なる外"を覆っている粘膜は無限な外部環境由来非自己抗原に常時対峙している.その置かれている環境は無菌状態といっても過言ではない体内において,監視,排除,寛容を司る全身免疫とは異なるため,独自の免疫生物学的特徴を有する粘膜免疫システムが発達し,存在することは理にかなっている.粘膜免疫システムにおける自然・獲得免疫系の発達・維持・誘導・制御機構については数々の免疫学的特徴があることも明らかになっており"粘膜免疫学"として新しい学問的潮流を築き上げている.まさしく,免疫学のなかで"免疫の新世界","免疫の新大陸"と呼ばれる新しい学問的扉を開いたといっても過言ではない.さらに,恒常的に多種多様な病原体,常在微生物,食餌性抗原,アレルゲン,環境ストレスに曝露されている粘膜で覆われている臓器・組織における病気の発症という点からも,粘膜免疫システムは医学領域の臨床各科が対象とする疾患の発症とのかかわりも深く,それを理解することで,各種の病態形成機構が明らかとなり,さらに同システムを駆使した次世代ワクチンとして期待されている"粘膜ワクチン"や"粘膜免疫療法"などの新しい病気の予防・治療に結びつく可能性を秘めている.
本書では,粘膜免疫システムの基礎的理解に向けて,歴史的背景から最近の飛躍的成果を体系的にまとめ,そして臨床各科における病気との関連,そして新規予防,治療戦略開発へ向けての取り組みを,"粘膜免疫学"の学問領域で輝かしい成果を上げている国内外の研究者により,魅力ある図や表を盛り込んで解説していただき"臨床粘膜免疫学"として出版することができた.この場をかりて,各執筆者には,日々の研究に超多忙のなか,本書の趣旨にご賛同のうえ,快くご執筆いただき,心から感謝を申し上げる次第である.そして,編者を同学問領域に導き,今日まで指導・協力していただいた恩師である米国アラバマ大学バーミングハム校名誉教授のJerry R. McGhee 博士にこの場を借りて深く感謝申し上げる.
本書の企画から始まり,出版まで忍耐強くサポートしてくれたシナジー社,編集担当の尾崎仁志・島田 潤両氏に深く感謝する.
本書が,編者が30 年におよび魅了されてきた最前線の免疫機構としての粘膜免疫システムの神秘性も含めた生命機能としてのダイナミズムと柔軟性について,読者の知的要求を満たすことを期待している.
2010 年10 月
初秋のウィ ーンにて 清野 宏