まえがき
遺伝子解析の進歩は著しく,現在の次世代シークエンサーと呼ばれる遺伝子解析機器を用いると,短期間に非常に多くの遺伝子バリアントの検出が可能となります.こういった機器を実際の診療に応用するのはごく自然な成り行きです.遺伝子の変化が発病や病気の進行に大きく影響するがんの領域では,がんゲノム解析が2019 年からは医療保険に収載され,すでに本邦でも多くの検査がなされています.
このような中,保険の枠外でゲノム解析を行えないかと相談されるケースもあります.「海外の業者にデータ解析をお願いしたのですが…」と,解析結果を持参されて相談に来られる患者さんもおられます.遺伝子解析の結果,何らかの変化が見つかった場合,その変化が疾患の治療やその後の患者さんの治療にどう影響するか,様々な手法を用いて当該の遺伝子変化を評価することを,アノテーション(英語でannotation)と呼び,解析結果を診療に役立てる際に不可欠な作業となります.様々な病気に関する知識と,遺伝子についての生物学の知識とをあわせて行うこの作業は,実際には難易度が高いです.
こういった作業が脚光を浴びるようになったのは,2005 年の次世代シークエンサーの登場以降であり,そもそもこの作業についての教育体系がまだ確立してはいません.また,本邦では,遺伝性の病気に罹患され治療を受けておられる患者さんの一般人口に占める割合が欧米と比べて低く,遺伝子の変化と病気のつながりについての教育も,欧米よりおろそかにされがちです.この本をご覧になっている読者皆さんの中にも,がんゲノム解析の結果のアノテーションを実際に経験された方が多いと思います.すでに一般臨床で知られているがん遺伝子の変化ですと,普段見聞きしているので解釈が容易ですが,そうでない遺伝子については正直かなり手こずったのではないでしょうか.
筆者の藤田は現在,次世代シークエンサーのデータ解析のほか,悪性疾患としては主として肺癌の診療に従事している呼吸器内科医であり,筆者の真砂は,呼吸器内科医であるとともに,がんゲノム解析にも実際に従事しております.2002 年に当初「手術不能又は再発非小細胞肺癌」への適応としてゲフィチニブが認可され,以後肺癌の化学療法においては腫瘍細胞の遺伝子の変化の情報が欠かすことのできない重要なものとなりました.筆者は肺癌のこういった遺伝子の変化の情報が診療に応用されていく過程を臨床現場で経験し,2014 年以降は次世代シークエンサーを用いたがんゲノム解析に従事するようになりました.この過程で上記のアノテーションについては,だいぶ多くを経験させていただきました.愛知県がんセンターにおいては遺伝子病理診断部にて,がんゲノム解析の結果の臨床応用の現場でお手伝いする機会にも恵まれました.現場では,大量のがん遺伝子の変化の解釈に四苦八苦する医療現場のスタッフの方々を間近に見ることとなりました.現場の医療スタッフの方々からの質問をお受けし対応する中で,どういったことに現場の皆さんがお悩みなのかも肌で感じることとなりました.そのうち,個人的にアノテーションについてのレクチャーをお願いしたいと依頼されることもあり,自分で教材を作成しお話しする機会もございました.
2020 年初頭からの新型コロナウイルスの蔓延によって,医療に関連する多くの方々が,程度の差はあれ,このウイルスへの対応に追われることとなりました.このコロナ禍にあって,ただでさえ多忙な医療スタッフの皆さんは,アノテーションに必要な生物学や遺伝子学についての知識を得る機会も時間も乏しいのが実情です.
今回,これまで受けていた質問で多かった事項への解答を念頭に置き,個人的にレクチャーを依頼された際の講義資料をもとにした,1 章ごとに自学で習得できる形式での書籍をまとめることとしました.本書は,がんゲノム医療が浸透しつつある現在,がんゲノム解析の結果として返却される遺伝子バリアントの情報を,正しく短い時間で理解するための手引書です.最終章に演習問題を用意し,理解いただいた内容を応用する場も設けています.
私どもが本書を執筆する際に思い浮かべた読者層は,がんゲノム医療に関与されている医療現場の方々です.がんゲノム医療において,エキスパートパネルと呼ばれる会議が必須なのですが,そこでは検出されたバリアントに対する解釈が必要となります.この解釈は,病院によって担当する方が異なるのですが,若手医師であったり薬剤師さんであったりと様々です.臨床現場においても最前線で働いておられ,他にもたくさんの業務を抱えておられる皆さんに,できるだけ効率よく遺伝子バリアントの解釈をしていただきたいと考えています.また,実際に病気と向き合っておられる患者さんやそのご家族にも,理解可能なかたちに構成しています.生物学の知識をある程度お持ちの方であれば,本書の理解は比較的スムースではないかと思っています.
本書が少しでも,医療現場で格闘する皆さまの助けになれば,と願っています.
藤田史郎
真砂勝泰