序文
頸部郭清術は,頭頸部癌治療の根幹をなす重要な手術であることは,衆目が一致し全く異論のないところである.多くの頭頸部外科医が,頸部にリンパ節転移が発症した場合に,適応があればおのずと頸部郭清術を遂行されていると思われる.その背景には,Martinによって確立された頸部郭清術の概念が広く受け継がれているためと考えられる.
Martinは頸部郭清術に対して偉大な足跡を残しており,その概念が今日まで連綿とあまねく継続されている.それは,根治的頸部郭清術であろうと機能的(保存的)頸部郭清術であろうと,最初に皮弁を作成し手術のための必要な郭清術野を設定していることからも明らかである.副神経を温存することを唱えたBoccaの論文でさえも,術野の設定という点においてはMartinの考え方をそのまま踏襲している.すなわち皮弁作成後に,まず郭清術野を全視野下に置き,そのなかで温存する組織を選択して頸部郭清術を行っている.筆者がこれまでに見学した国内外の有名な癌専門病院でも,ほとんど同じように郭清術野を設定していた.つまり,頸部郭清術を施行する場合,皮膚切開⇒皮弁挙上⇒郭清術野の設定⇒胸鎖乳突筋の処理⇒…というように手術手順が設定され,それに従って頸部郭清術が行われている.
筆者はこのような考え方に20年以上前から疑問をもっていた.というのは,胸鎖乳突筋は温存する組織であることが広く認識され,実際の頸部郭清術でもそれが実践されているにもかかわらず,頸部郭清術の最初の段階で,術野を全視野に置くための皮弁が作成され,胸鎖乳突筋の全容を露出することを大前提にしているからである.筆者はMartinの提唱した概念に基づく頸部郭清術を遂行しながら,「深頸筋膜に囲まれたリンパ節を含む脂肪塊を摘出することが頸部郭清術の一番の目的なら,手術ではそれを最短で達成できる方法を最優先して選択すべきである」と,常々考えていた.頸部郭清術の郭清対象は,胸鎖乳突筋や内頸静脈あるいは副神経ではなく,あくまでも深頸筋膜で囲まれたリンパ節を含む脂肪塊であり,この脂肪塊が確実に郭清されれば,頸部郭清術の目的は達せられるのではなかろうか.
筆者はこの考えを実践に移すため,従来の皮膚切開や皮弁を作成することにこだわらない方式,すなわち皮弁の作成は拘縮が発症しない程度に最大限僅少化し,胸鎖乳突筋の内面に直接入ることが可能となる皮膚切開の設定を考案した.そして,この切開による頸部郭清術を多数の症例に対して施行し,従来のMartinの方式によるen blocでの頸部郭清術と比較しても治療成績や再発率について有意差や治療成績に遜色がないことを確認し,さらに手術時間が短い,術後の頸部の違和感が少ない,手術による患者の負担が軽いなどのメリットも大きく,それを常々体感してきた.
筆者は,従来のMartinの考え方を踏襲した頸部郭清術を否定しているわけではない.本書で紹介している頸部郭清術でも十分にその役割を果たすことができ,とりわけ胸鎖乳突筋や副神経を温存することを目的とする機能的頸部郭清術を施行する場合には,その役割を十分に達成できるものと確信している.
頸部郭清術が記載された手術書は数多くあるが,その内容は数ページで物足りなさが大きく,どこかで見たことのある解説の焼き直しに近い内容のものがほとんどであった.臨床現場で役立つ書籍があれば有用ではないかと考え,頸部郭清術を学ぼうとする諸氏に術者の生の声を直接伝えたいと強く思うようになった.本書では頸部郭清術の基本的概念と頭頸部癌の治療医を目指す諸氏に理解してもらいたく,そして実際に継承されることが難しい手技の技術の向上に少しでも寄与できれば幸いである.
手術は伝統と習慣・主観と因習とが経時的にとぐろを巻いて踏襲されているものであり,新しい考え方は,なかなか受け入れられにくいものである.本書で紹介する考え方に厳しい批判が多いことは百も承知であるが,あえて本書を出版することで一石を投じる思いである.
2023年2月
元 埼玉県立がんセンター頭頸部外科 診療科長
上尾中央総合病院頭頸部外科 顧問
西嶌 渡