序文
─「わかりやすさ」へのあくなき挑戦─
「正直言って、失語症ってよくわからない」冒頭から恐縮ですが、これは、私がこれまで出会ってきた言語聴覚士(以下ST)養成校に在学中の学生さんおよび、若手のST 諸氏からしばしば聞かされてきた率直な感想です。そのような声を耳にするたびに、私は、今後の自分の講義や講演の参考のために、必ず具体的な理由を聞くようにしているのですが、印象に残っているものをいくつか列挙してみると、①色々な人が少しずつ違うことを言っていて、どれが本当なのかわからない、②似たような用語がいくつもあって覚えにくい、③タイプ分類がよくわからないし、タイプ分類をしてもどのように訓練すればよいのかよくわからない、④「○○失語は理解が良好で、発話が不良」などと書いてあるけど、どのぐらい(の成績)なら良好と言っていいのかわからない、⑤流暢/ 非流暢の分類がよくわからない、などでした。
すでに本邦には、失語症に関する優れた教科書が多く存在しています。にもかかわらず、このたび、屋上屋を重ねるような形で、失語症をテーマに教科書を世に問うことにした理由(わけ)は、そのような若い世代の方々の疑問に対して、自分にどこまで答えられる力量があるのか、言い換えると、二十余年の臨床経験を通して、自分はどれぐらい失語症のことを理解できているのか、試してみたかったということに尽きるような気がします。今からちょうど10 年前、「失語症の障害メカニズムと訓練法」(新興医学出版社 2000 年)という本を執筆する機会に恵まれましたが、その頃から、「失語症というものを、極力文献に頼らず、これまで巡り合った患者さんから教えていただいたことをベースに、どこまで平易なことばで説明することができるか」が、自分の中で重要なテーマの1 つとなっておりました。
たまたま6 年ほど前、日本高次脳機能障害学会主催による夏期教育研修講座(失語症コース)の立ち上げに関与させていただく機会にも恵まれ、以後毎年、運営のお手伝いをさせていただくとともに、講師の末席にも名を連ねさせていただいております。講師と参加者の心理的距離が遠くならないようにと、定員を100 名程度に制限して始められたのですが、ふたを開けてみると、毎年受講希望者が殺到し、ある年などインターネット申し込み開始後約1 日で満席となり、通常の申し込み開始を待っていた方々から苦情が寄せられるという事態も発生しました。そのようなわけで、定員に関する当初の方針はどこへやら、回を重ねるごとに増やさざるをえなくなり、昨年は定員を500 名にまで拡大しましたが、ほぼ満席状態でした。
このような状況を目のあたりにするにつけ、ST の多くは、失語症に対して「よくわからない」とやや敬遠しながらも、その一方で、あるいは同時に、失語症について知りたい、学びたい、訓練ができるようになりたい、と切望していらっしゃるのではないか、と感じずにはいられませんでした。
また、私はこの夏期講座のほかに、ここ十数年は、毎年各県の言語聴覚士会からお招きいただいており、ざっと通算すると、少なく見積もっても3,000 名ぐらいの方に、自分が患者さんから教わったことをお伝えする機会に恵まれた計算になるのではないかと思います。講義や講習会では、少し解説しては、該当する臨床場面を音声または映像で提示し、そして次の解説に進む、というスタイルを通しているのですが、終了後のアンケートや感想を見聞きする限り、この方法は多くの方に歓迎されているという印象を持っています。ST 人口は、数年前に1 万人を超え、なおかつ毎年千人単位で増え続けており、人数という面では直線的に充実の方向に向かっているように見受けられる今、ほんの少しばかり早くST 人生をスタートし、多少の経験を積んだ世代がやらなくてはならないことは何でしょうか。
おこがましさを顧みず、あえて言わせていただくなら、それは「臨床の知」の伝承ではないでしょうか。そして、特にST に求められる伝承とは「はじめに諸家の学説ありき」、ではなく、「はじめに自分の臨床体験ありき」ではないでしょうか。そんなことを考えつつ、お声をかけて下さる所があればどこへでも参上し、失語症の評価と訓練の話をさせていただくという生活を続けていたところ、ある時、専門学校時代の1 年後輩である大塚裕一先生(菊南病院)より、「失語症の検査結果の解釈のしかた」をテーマに本を書きたいのだけど監修をしてもらえないか、というお話をいただきました。色々と相談を重ねていくうち、「それならもう少し欲張って、失語症の評価と治療というテーマで、たとえ未熟なものであっても、われわれがこれまで患者さんから教えていただいたことをすべて吐き出そうではないか」、ということになりました。結果として、最初は監修を依頼されただけの私が、全面的に口出しをしてしまい、編集・執筆という形で、横槍を入れてしまう形になってしまいました。
本書では、失語症の評価と訓練の考え方について、できるだけ具体的に、かつ、能力の限界まで、平易な文章で記載するように努めました。したがって、失語症を専門領域としない関連職種の方々にも抵抗なくお読みいただけると思っております。しかし内容的には、臨床現場の最前線でご活躍中のST の先生方にもご参照いただける水準を目指したつもりです。
本書は、基礎編、検査編、訓練編、症例編の4 編で構成されています。まず基礎編では、地球上のあらゆる生物のなかで人間だけにみられる高度なコミュニケーション・システムである「ことば」と、「ことば」の障害である失語症を理解する上で欠かせない記号論の考え方について説明します。次に、検査編では、ST にとっての共通のツールである総合的失語症検査を構成する、1)聴いて理解する(聴覚的理解)、2)文字を読んで理解する(読解)、3)話す(発話)、4)文字を書く(書字)、以上の4 つの言語様式(以下、モダリティー)それぞれの、情報処理の流れと、モダリティー相互の関わりについて、認知神経心理学的視点から、豊富なイラストや図表を活用して解説します。検査編をお読みいただくことで、総合的失語症検査に含まれる個々の下位検査がどのような言語情報処理過程を測定しており、得られた結果をどのように分析すればよいのか、そのノウハウを習得していただけるものと考えています。
続く訓練編では検査編で学んだ各言語モダリティーの情報処理過程のメカニズムをもとに、個々の処理過程が個別に障害された場合を想定した、障害メカニズム別タイプ分類を提示します。そして、障害された処理過程別の訓練法を紹介します。最後に症例編では、訓練編で提示した理論を、共著者である大塚裕一先生、宮本恵美先生、執筆協力者である橋本幸成先生が実際のケースに適用した経過を解説しています。ポイントとなる箇所には、理解を深めていただくためのチェックポイントを付けました。また、本書を教科書として使って下さる先生を想定し、講義終了後の学習確認テストのサンプルと、本文の中で紹介した訓練教材のサンプルを、付録といたしました。冒頭に掲げた「わかりやすさへの挑戦」が、果たしてどこまで体現されているか、不安なしとしませんが、いずれにしても、現時点で私どもが失語症に関して理解していることは、ほぼすべて吐き出せたと思っております。経験豊富かつ、博覧強記の諸先生方からすると内容的に未熟で再検討すべき部分も多々見受けられることと思いますが、今後まだまだ成長したいと思っておりますので、ご高覧の上、忌憚のないご指導を賜ることができれば幸甚に存じます。
最後に、これまで私に、身を挺して失語症について教えて下さったすべての患者さんに心から感謝の意を表させていただきたいと思います。
本書が、若いST 諸氏にとって、臨床の一助となればこれに勝る幸せはありません。
平成22 年5 月
小嶋 知幸