はじめに
私はいろいろな病院で優秀な研修医の先生をはじめ若手の先生方とお話しする機会が増えてきましたが、気になることが一つあります。医師は人間の体というれっきとした動物を扱う専門職であるにもかかわらず、ある分野の基本的な生物学の知識が全く高校生レベルにとどまっているということが度々ありました。
それはミトコンドリアが関与する生化学の分野ですが、例えば自分は糖尿病の専門医になりたいと希望している若手医師の方に解糖系のことを聞くと、「グルコースがピルビン酸になること」と 、高校生と同じことしか言えないというようなことがあったのです。糖尿病や代謝疾患を専門にしようと志した若手医師でさえそのありさまですから、他の分野をきわめようとする医師の方々に至っては言うまでもありません。皆さんはグルコースの欠乏状態でグリコーゲンや中性脂肪がどのようにエネルギー代謝をバックアップしているか答えられるでしょうか。
これは若手医師の方々が不勉強である、あるいは学生時代に不勉強であったということを言っているのではありません。医学研究の進歩があまりにも早すぎたために、医学部の教科内容が高校生物の段階をずっと超えて、遠い遠いはるか先の彼方へ行ってしまったからなのです。高校生物を修了して医学部に進学してきた学生にとって、やっと数を数えられるようになったばかりの子どもが九九演算も知らないまま、因数分解や微分積分を学習させられるような状況かもしれません。さらに悪いことに、医学部で教鞭をとられる教員の方々にしてもご自身の学生時代は同様だったはずです。高校生物の終着点と現代医学の最前線のギャップがあまりにも大きく、自分も学習しなかったこと、教えて貰えなかったことを、次の世代に学習させられない、教えてあげられない、しかも自分は医学の最前線で研究の成果を上げたことで医学部教員に抜擢されたわけだから、高校生物と現代医学の狭間の部分をどのように教えてよいかわからない、そういう悪循環はたぶん私が医学部学生だった頃からすでにはじまっていた構造的な問題なのだろうと思います。
私は生化学が専門ではありません。医学部卒業後 7年間は小児科や産科で特に周産期医療に従事しました。それから 30年以上は病理診断を仕事にしてきました。しかし幸いなことに、私は学生時代にハーパーの生化学の原書を一気に読んで生化学にはずっと興味をもち続けてきました。素人なりに生化学を学んできたのです。素人なりに広く浅く(薄っぺらく)興味をもっていると、周産期医療をやっていても、病理診断をやっていても、生化学こそ医学の基本だと思えるようになりました。生化学、それも人間はどうして動けるのかというエネルギー代謝の視点が大事なのです。この視点をもたないとたいへんな過ちに陥る恐れがあります。例えば中性脂肪を減らすために油っこい食事をやめるだけでは不充分です。
私は 10年以上 、臨床検査技師の学生を教える立場にもいました。私はそこで病理学と一緒に、エネルギー代謝を中心にした基本的な生化学の講義をしてきました。昔の卒業生が何人も、あの講義のお陰で生化学が理解できたと言ってくれますが、素人なりに広くまとめた生化学の講義だったからこそ、学生たちには理解しやすかったのかもしれません。そこで最近の優秀な研修医の先生方や医学生にもそれと同じ内容の講義をしてあげたいという思いで書いたのがこの本です。何しろ他の勉強も忙しい人たちのことですから、1 日か 2 日のうちに一気に読めるような本、また手元に置いておけば将来何かにつけて見直すこともできる本、そんな都合のよい本にするつもりで書いてみました。素晴らしい業績のある教員の先生方は、医学の最前線の講義をされながらも、その内容が高校生物の知識とどのような接点をもっているのかを意識しながら、さらに素晴らしい講義にするための一助にしていただけたら幸いです。
また本書は必ずしも医療・生物学の専門家や専攻学生だけのためのものでなく、高校生物の教科書やテレビの科学番組などの知識に物足りなさを感じている一般の方々にも読んでいただけるよう、なるべく難しい専門用語を避けて平易な言葉で解説するよう心掛けました。どうぞ手にとっておもしろそうだと感じたら、さっき食べたものは今頃どうなっているだろうなどと、具体的にご自分の体の内部に思いを巡らせながら読んでいただければ幸いです。
田中文彦