序
脂質とは何か.生化学の教科書における伝統的定義は「水に溶けず有機溶媒に溶ける生体分子」である.しかし,水に溶けないタンパク質や炭水化物は存在するし,水溶性として取り扱うべき脂質分子も存在する.そもそも,有機溶媒の定義も曖昧である.構造的には長鎖の炭化水素鎖をもつ生体分子ともも定義されるが「長鎖」の定義は恣意的でありステロール骨格には当てはまらない.つまり脂質は漠然とは定義されるが厳密には定義できない.分枝構造を含む(中長鎖)炭化水素鎖およびその派生構造をもつ生体分子,とでも定義すべきであろうか.
伝統的古典的脂質研究は,他の分野と同様に分子の構造の同定と代謝の解析であり,それは「水に溶けない物質」を相手の悪戦苦闘であって「脂質の古典的定義」の呪縛の中での格闘であったといえる.そしてそれは他の分野の研究者にとって超えがたい障壁と見えたかもしれない.しかし,細胞生物学・分子生物学の飛躍的展開と研究技術・研究環境の劇的な進歩と変化による生命科学の近代化とパラダイムシフトにより,今や「脂質研究」は特異な技術を基盤とする分野ではなく,ボーダーレスな生命科学の研究の展開の中でもはや障壁は感じられないように見える.多くの異分野の研究者が参入し,脂質研究は飛躍的な発展を遂げつつある.今後もこうした方向での研究の進歩は加速度的に進み,大きな成果をあげるであろうことに疑いはない.
しかしながら,忘れてならないのは,水を媒体に成立している生命における「水に溶けない分子」という脂質の存在の基本的命題である.ボーダーレスな生命科学の研究技術の適用がこうした対象に無定見に適用されることによる思わぬ落とし穴に気づかない危険が常に存在するのである.こうした視点に立ち,本書では,脂質研究における基本的問題について,その考え方から具体的技術的課題までを,新たに脂質研究に踏み込もうとする研究者への指針として,また脂質分野で活躍する研究者にはこの分野の原点を改めて確認する指標として,整理したいと考えた.
生命とは,宇宙の大法則の一つである「熱力学第二法則」に逆らい外部環境とは独立した生命体内部の複雑膨大で秩序だった物理と化学の反応体系を維持する努力である.個々の生命体は,そのための「エネルギー需要」を賄い,この体系を成立させている環境における酸化や宇宙線・紫外線,自然化学物質による生体物質の劣化を防ぐ「部品交換」のため,その材料・資源を「栄養」として体外より調達する.地球上のさまざまな生物は,長い年月をかけこうした生命維持に必要な物質「栄養素」を使い回すシステム,そして多様な生物がそれぞれ「分際」をわきまえ,皆で資源を共有ながら安定して暮らす「生態系」を作りあげてきた.しかし,個々の生命体が「熱力学第二法則」に逆らって永遠に存続するには無理がある.これを解決するために,「生殖」によるコピー個体の再生産を行うことで種としての存続を可能にしてきた.その再生産の設計図を遺伝子というdigital情報にして劣化を防ぎ,しかも設計図のコピー時に適度な「誤記」の機会を紛れ込ますことで常に環境の変化に適応できる可能性のある変異体を生み出す「進化」の機構まで組み込んだのである.
こうした生命体個体の基本的要素は,①外部環境から相対的に独立した反応体系の場,における②水を媒体とした反応体系の集合,である.この場合,外部環境も内部環境も水を媒体としており,内部環境を外部から独立して維持するには水に溶けない隔壁が必要である.この条件を満たす隔壁として柔軟で可塑性に富む構造によりその機能を果たすため,強い両親媒性・界面活性をもつ小分子の二重層をなす分子集合体の構造が選択された.つまり脂質分子の生命における最も基本的役割は,疎水性の炭化水素鎖を有する脂肪酸分子を基本構造としたリン脂質などによる細胞膜の構築である.これに加えて,脂肪酸分子はその炭化水素鎖のなかに効率よくエネルギーを蓄えることができることから,余剰のエネルギーの貯蔵にも利用されることになる.こうして脂質は生物にとって利用価値の高い生体分子となったといえる.生命が多細胞生物に進化するなかで,脂質にさらに分子特異的な第三の機能の派生をもたらした.半水溶性の脂質分子の特異的な「生理活性脂質」の機能の獲得である.細胞内のあるいは細胞間の情報伝達分子群であり,これらの多くはそれぞれの特異的な作用により動物個体の生命維持における高度な植物生理機能の制御にかかわるが,一部は中枢・末梢の神経系機能など動物生理機能の調節にもかかわる.
生命科学における脂質のこうした位置づけを土台として,その研究の基本的視点と技術的背景や限界を理解し,新たな研究に踏み込む上で,本書が多少なりともお役に立てることを願う.脂質の具体的な解析法を扱う第Ⅱ部の各項目では,それぞれについて陥りがちな誤りや犯しがちな失敗をボックスや注釈などのかたちで示すことを試みた.初学者はもちろん,経験ある研究者の方々にも是非ご覧いただき,日頃行っている実験手技を見直す機会としていただけると幸いである.
内容に関しては,編者が一同に会する複数回の編集会議において各原稿を検討・議論し万全を期したが,なお不確かな部分や今後の研究の進展により変更すべき箇所もあるかもしれない.こうした点についての適宜の訂正やアップデートのためには,読者の皆様からの忌憚のないご批判ご助言を是非お願いしたい(正誤表・更新情報については,羊土社のウェブサイトにてご確認いただきたい).
2019年7月
編者を代表して
横山信治