序にかえて
第Ⅱ巻の冒頭に当たって,改めて「神経症候学」の認識を深めるのも有益と思い,日頃,考えることの一端を以下に述べてみよう.
先ず,症候学には意思疎通の手段としての重要な側面があることに気付かれよう.患者と医師との間の唯一共通の話題は症候にある.患者は自覚する症状を訴えて説明し,医師は診察して病気の徴候を他覚的に捉える.これら症状と徴候(すなわち症候)を話し合うことにより両者の聞の意思疎通が生まれる.このように患者と医師との聞を橋渡しする極めて重要な手段が「症候」であり,ぞれを整理整頓したのが「症候学」である.それ故に,医師が症候学を正しく認識し,症候学に精通することの大切さがある.更に,症候学による意思疎通は患者と医師との聞のみならず,基礎医学と臨床医学とを結ぶ重要な手段であり,役割りを持っている.一例として,神経病理学で特異な所見が認められた場合,それに対応する臨床所見が明示されて初めて,臨床病理学的に一つの疾患ないしは病態として認識される.ことの臨床と病理との聞の共通語が症候であり,症候学である.これにより互いに理解を深めることができる.このことは神経病理学に限らず,神経‐生理学,‐生化学,‐薬理学,等との間にもあり,今日では遺伝子病学についても言えることであろう.即ち,「症候学」は臨床bedsideに限られるものではなく、もっと大きな役割りを持っている.
次に,神経症候学が病態の極めて本質的な一面を示している場合について話を進めてみよう.我が国で,かつて(1950年代),遺伝性運動失調症はMarie型が多いか, Friedreich型が多いか,が話題になったととがある.症候学的にはMarie型が多いとされたが,欧米ではFriedreich型が断然多いことから,それを疑問視する意見があった.その後(1991年),本邦の全国調査でFriedreich型の典型例は見出されなかった.更にその後(2000年),運動失調症の遺伝子検索で,日本人にはFriedreich病に該当する遺伝子は見出きれないことが明らかにされた(21章参照).遺伝性運動失調症の病態に関する欧米と日本との相違が,遺伝子検索以前に既に神経症候学に示されていたことは注目に値する.また,半世紀前まで,脳梁は大脳の沈黙野silentareaの一つにされていた.そのため,脳外科領域では脳深部の手術に際して,脳梁を切断しても神経症候は現われないものとして,その切開,切除がなされていた(1巻4章参照).今日では,脳梁は離断症候群を呈する代表的な部位として知られている.つまり,本来,脳梁には神経症候学が存在するにもかかわらず,当時はまだ脳梁に関する知見が乏ししその症候を診る知識と手技,すなわち神経症候学を知らなかったが故に,これを見過ごしていたに他ならない.更に,若年性一側上肢筋萎縮症(平山病)は運動ニューロンの変性疾患(筋萎縮性側索硬化症,脊髄性進行性筋萎縮症)から臨床的に分離独立されたが,当初はその特異性に疑念が持たれ,独立性に反対する意見もあった.四半世紀後に神経病理学的所見が確認され,変性疾患とは異なる特殊性が示された.すなわち,本症発見の契機となった特有の症候(学)が本症の独立性と病変の特異性を示していた(18章参照).以上,三件を例示したが,病態に対する神経症候学の先見性,洞察力が改めて認識されよう.
ところで,神経症候学には正しい理解と確かな手技が求められるのは言うまでもない.そのために,時として,問題となる或る症候について歴史を遡らなくてはならないことがある.それと言うのは,論文の中で孫引きが繰り返されるうちに,或いは先輩から後輩へ伝えられる中で,誤り伝えられて,理解に齟齬を来たし,手技を誤り,原典の意義・本質を見失っていることがあるからである.現実にそのような場面に遭遇することが稀有ではない.正しい理解と確かな手技は一対をなすもので,理解が暖昧ならば手技は崩れる.その逆もまた然りである.「腱反射の診察手技はその医師の神経症候学の理解度を表わす」と言われるのも,これらを端的に表現したものであろう.更に,神経症候学には理解と手技に関連して,もう一つ特性がある.それは,神経系の機能解剖の特性による症候間の階層性であり,診察の順序性に関わるものである.例えば,意識障害があるとき運動障害や感覚障害の評価は難しい.下肢に運動麻樟があるときBabinski徴候の有無を診る意義はあるが, Barre徴候を検べる意義は乏しい.錐体外路障害があるとき小脳病変はあっても小脳症候は捉え難い.等々.これらは神経系機能の階層性によるものである(各章参照).従って,個々の徴候を一様に擢列的に診ることは症候学的に有意とは言い難い.それぞれの徴候の意義を理解しつつ,相互間の階層性とそれに拠る診察の順序性を考慮することも神経症候学の特性とみるべきであろう.
更に,神経症候学に限らないが,学術用語は正当に用いられなくてはならない.昨今,一般社会での日本語の乱れが指摘されているが,一般語であれ,専門用語であれ,言語はややもすると乱れる.用語の乱れは誤解を生じ,医師間の意思疎通はもとより,研究対象例や薬物治験症例にも影響を及ぽすことがある.日本語用語には欧米用語の翻訳が多いために同義異語が少なからずあり,また用語自体の内容(意義)の誤解もある.このような背景と現実から,筆者は神経学用語の整理の必要性を痛感し,その編集を学会に提言した.結局はそれを引き受げることになり,纏めたのが神経学用語集改訂第2版(1993)である.その凡例に多くの紙面を割いているのは上記の背景を考慮してのことである.特に神経症候学での用語は多くの現象を夫々に僅かな文字数で表現した約束事であることを理解する必要がある.
最後に,問診(病歴聴取)は神経症候学の入ロであると共に,臨床神経学の出発点である.極めて重要な役割りを持ち,症候学の中で最も難しいものである.しかし本書には,初版以来,「問診」の章を設けていない.現実には,疾患により,また患者により,問診の内容や仕方も異なる.これらを一定の形式で示し難い.実際には先輩医師の問診を,bedsideのいろいろな場面で,後輩医師が見聞することにより学びとる.即ち実践的な臨床教育によって得られるものである.しかしここに問診の要点と心得を,抽象的ではあるが,整理しておくのも有意義と思われるので,それを以下に簡潔に述べる.病歴用紙(チャート)に主訴,現病歴,発症様式や経過図,既往歴,家族歴(系図)などが記載されるのは一連の問診の結果を整理したものである.なお問診の前提として,各種疾患の臨床完成像のみならず,それ以前の,初期からの症候経過を理解しておくことが肝要である.問診はこの途中の過程を尋ねなくてはならないからである.問診が最も難しいといわれる所以の一つである.
第一に,問診とは有用な病歴(現病歴,前病歴,家族歴)を纏めるためのものである.十分な現病歴が得られない原因の多くは医師の問診の仕方にある.患者の話を漫然と聞くのでなく,医師は(主訴を中心としながらも)病歴の初めから順次一つ一つ聞きとるべき事柄を尋ねる.先を急いで患者の話を遮ったり,誘導してはならない.確実,詳細,必要な内容を得るために,どれだけか多くの時間を要しても,的確な病歴は正確な診断・治療への近道である,と心得る.第二に、現病歴の問診の中で,患者の病態(症候,病変,病因,疾患)を広く想定し,いろいろな可能性を先ずは広く捉える.一般に,問診を進めるほどに疑う病態の範囲は絞られると思い勝ちであるが,当初は想定の網を広く拡げておくことが肝要である.絞り込むのは診察で現症を確認した後で,時には検査成績を勘案してからである.疑う範囲を早くに絞ることは視野を狭めて,真の病態を網から漏らすことがある.第三に,問診は前病歴(既往歴,前駆症状,生活歴)と家族歴に及ぶが,上記の現病歴の問診から疑われる病態を念頭に置いて尋ねる.患者には関連性がないと思われる事柄でも有意義なことがある.漫然とした問診では然るべき情報は得られない.第四に,問診する間に,疑われる病態の確認や鑑別に必要な診察手技(方法)を脳裏で準備する.一連の問診内容を手掛かりに疑うべき病態(症候,病変,病因,疾患)を考え,診るべき症候(徴候)を選択し,それに相応した診察方法へと進む準備である.頭から始めて足に至る一定形式の診察法は学生や研修医など初心者の手ほどきに有用ではあるが,対面する患者にとって重要な所見は,問診結果に沿った診察法を必要とする.一定形式では見逃されるからである.これは多くの場面で実際に遭遇することである.
この第Ⅱ巻は既刊第I巻(平成十八年, 2006年)と同時に脱稿したので,用語は原則として神経学用語集改訂第2版(1993年)に準拠している.
なお, 22章の付録として,録画映像「不随意運動ー神経症候の理解のために」を出版社のwebsiteに掲げた.症候学の的確な把握の一助とされたい.
平成二十二年七月
著者識す