発刊にあたって
化学者には化学物質の特性や体内動態,合成や分析の専門家も多く,薬理学者は人体における薬物動態や代謝,作用機序等に詳しいですが,いずれの分野の専門家も中毒患者の診断や治療の経験はありません。中毒患者を診療して,その治療の責任を負う臨床医と,薬理学者,毒物学者を結び,中毒を学際的な臨床医学として発展させることは,日本中毒情報センターに課せられたもっとも重要な役割であります。日本中毒情報センターが設立30 週年を迎えるにあたり,これまで蓄積してきた中毒情報データベースをもう一度見直し,日常診療の実用書としてのみならず,教科書として利用してもらえる出版物を作成したいと考え,全職員が一丸となって発刊に取り組んできました。すでに発刊済みの第1 巻「家庭用品編」は医師や薬剤師,研究者などの多くの方々がご購入くださいました。専門書としてはたいへん好評を得ているものと感謝しております。
引き続き,医薬品,農薬,自然毒,工業用品について出版の準備を進めてきましたが,項目数,ページ数がきわめて多くなることから,これを第2 巻「医薬品・自然毒編」と,第3 巻「農薬・工業用品編」に分け,後者には東京オリンピック・パラリンピックを見据えて「化学剤編」を加えることにしました。
毒劇物を含む化学物質は現代社会と密接にかかわっており,法的規制や管理を強化しても社会から完全に隔離・排除できるものではありません。化学物質が災害を引き起こすのは爆発や火災,老朽化した施設での漏出事故などが考えられますが,私たちと化学物質の接点は,もっと身近なところにあります。毒劇物の流通調査によると,苛性ソーダの1 日の国内輸送量は1,400 万トン,輸送回数は1,000 回を超えており,シアン化合物だけでも3 万トン/日,50 回/日に達するとされています。毒性産業物質(TICs)といわれる毒性の強い農薬・工業用品の誤った使用,誤飲・誤食,これを用いた自殺企図,さらには「毒」マークのタンクローリーの横転事故への備えは,現代社会に必須と思われます。
一方,1994 年から1995 年にかけて発生した松本および東京地下鉄サリン事件を背景に,2000 年に開催された九州・沖縄サミットで,わが国では初めて本格的な化学剤対策が策定されました。日本中毒情報センターでは,このときに収集・整備した化学剤データベースをもとに,厚生労働省の委託事業として化学災害研修「毒劇物テロ対策セミナー」を医療機関を対象に毎年開催し,データベースの充実を図ってきました。近年は世界中でテロが間断なく発生し,わが国においてもテロ対策の強化がいっそう求められるようになりました。斯かる状況下で,2006 年からは「NBC 災害・テロ対策研修」と名称を変更して,現在も毎年2 回実施しています。本書で取り上げた毒性の高い産業物質(TICs)と化学剤に関する情報は,この研修のバックボーンとなるものです。ひとたび化学テロが発生すれば,被災者は区別なく病院を受診します。本書は,セミナーの受講者ばかりではなく,広く医療機関の方々に是非に読んでいただきたいと思っています。
農薬・工業用品編は,第1 巻と同様に,取り上げた化学物質群別に,概要,初期対応のための確認事項,初期対応のポイント,解説の順に記載されています。概要と初期対応のための確認事項,初期対応のポイントを読めば,一般市民からの問い合わせにはほぼ情報提供ができるようになっています。これに続く解説には医療機関における治療についても比較的詳細に記載しておりますが,これまでの医師からの問い合わせ内容を振り返ると,実際の治療にあたっては,必ずしも十分な情報とはかぎりません。必要に応じて,日本中毒情報センターの中毒110 番に,問い合わせていただきたいと思っています。
化学剤編は,農薬・工業用品編とは異なり,第Ⅰ章総論では,世界のテロ情勢のなかの化学テロの位置づけ,覚知と状況把握(発災現場における鑑別診断,現地調整所のあり方),日本中毒情報センターの化学テロ・化学災害対応体制,ゾーニング,個人防護装備,救出・救助,トリアージ,現場応急処置,除染,避難誘導などについて,現在までの知見を詳細に解説しました。第Ⅱ章は,化学剤のなかでももっともテロ等で用いられる可能性の高いサリンを中心とした神経剤対応マニュアルで,第Ⅲ章は,同じくテロ等で用いられる可能性の高いびらん剤対応マニュアルであります。いずれも近年の新しい知見を踏まえたきわめて詳細な内容となっています。災害拠点病院の先生方には第Ⅰ章,第Ⅱ章,第Ⅲ章は,是非通読していただきたいと思っています。第Ⅳ・Ⅴ章は,第二次世界大戦までに開発された7 類型,25 種類の化学剤に,戦後開発され,最近使用されたとされるリシン,ノビチョック,フェンタニルを加え,これら個々の化学剤の【物性】【毒性,中毒作用,体内動態】【中毒症状】【治療】についてのデータベースとしました。また,本章の発刊にあたって,これまでのデータベースに,【概要】と【開発の歴史的背景】を加えることにしました。
本書は日本中毒情報センターの設立30 周年を記念して発刊するものですが,既刊の第1 巻「家庭用品編」,また現在編集中の第2 巻「医薬品・自然毒編」とあわせて,ご活用下さることを願っております。
2020年6月
公益財団法人 日本中毒情報センター理事長
森ノ宮医療大学副学長
吉岡 敏治