◆医学を学ぶ上で医学史は必要か?
「温故知新」という言葉があります.『論語』の「子曰く,故きを温ねて新しきを知れば,以って師と為るべし」に由来し,古い歴史を知ることで新しい見方が開ける,あるいは,新しいことを知るには歴史を知らなければならない,という教えです.では,最新の現代医学を学ぶ上で,医学史を学ぶことは 必要でしょうか?
誤解を恐れずにあえて言えば,答えはNOです.確かに社会学,政治学など人文科学系の学問では「温故知新」は有効ですが,日進月歩の自然科学の場合,これはあまり当てはまりません.もちろん,何か新しい研究を始めるには,現時点で何が分かっていて何が分からないかを把握するため,過去20~30年の研究の流れを知る必要はあるでしょう.しかし,100年以上も昔のことを知る必要はまずありません.ましてや,ギリシア,ローマ時代,あるいは中世の歴史を知る必要性は皆無です.医学史を知らないと,最新の医学を理解できないということはありません.
にもかかわらず,大部分の医学部では医学史の講義があり,医師国家試験でも医学史の知識が問われることがあります.なぜでしょうか.
それはひとえに,医学という学問,医師という職業が,単に病気を扱うものではなく,病気を持つ「人間」を対象とするものだからです.厳然たる自然科学として最新の医学を学ぶことが重要であるのは間違いありませんが,人間や病気の理解には,医学の周辺知識や,医学以外の知識を欠くことができません.社会学,歴史学,文学など,およそあらゆる分野の知識が,人間の幅広い理解につながります.逆に言えば,たとえ間接的であったとしても,人間理解につながらないものはないとも言えます.歴史,文学,小説はもとより,映画,絵画,音楽,漫画......すべてこの目的に役立ちます.医学生の皆さんには,医学の教科書以外の本もたくさん読み,いろいろ な経験を積んで欲しいと思います.
そして,この医学史もその一つととらえてください.医学は人間の祈りだと言われます.病の苦しみ,死の恐怖から逃れるため,長い歴史の中で,医者や患者がどのように考え,何を成し遂げてきたか.それを知ることは,必ずや人間の理解に役立ちます.
◆本書の特長と医学史の学び方
本書の目的は,このような考え方をもとに,医学生の皆さんに医学史の概要を伝えることにあります.あくまでも人間理解の一助としての医学史ですから,以下のような点に留意しました.
(1)医学全体の流れを追う医学通史に加え,特に重要な分野,興味深い分野をテーマ別に取り上げ,医学史を立体的に理解できるようにしました.
(2)大きな流れ,重要なイベントの意義をおさえることに主眼を置き,派生的な内容,関連事項は,「+α」として別に記載しました.「+α」では,医学史の関連事項のみならず,医学史の流れには直接関係ないものも含め,興味深いエピソードを多く取り上げて,興味を持って読めるように配慮しました.また,これから学ぶ現代の医学との接点について随所で触れました.
(3)歴史を扱う上で年号を避けては通れません.あえて年号は細かく記載しましたが,受験勉強の世界史ではありませんから,いちいち覚える必要はありません.物事の前後関係の目安としてください.理解しやすいように,必要に応じて同時期の一般世界史についても触れています.
(4)図版をできるだけ多く取り入れ,図とその解説を読むだけでも,全体の流れが分かるように配慮しました.
(5)巻末に問題集を付し,どうしてもおさえておいてほしい知識を確認できるようにしました.
◆さらに深く勉強する方へ
筆者の専門は放射線医学です.放射線医学,自然科学の歴史に興味を持ち,医学史全般についてもいろいろ勉強してきましたが,決してその専門家ではありません.医学史を専門に研究する学問は「医史学」と呼ばれます.しかし,厳密性を重んじる医史学専門書はどうしても難しく,無味乾燥になりがちです.本書は医学史全体の流れを理解することを目的としていますので,あえて細部を省略しているところも少なくありません.そこで,さらに詳しく勉強したい方のために,医史学者による詳しい教科書を含めた参考書をいくつか紹介しておきます.
・梶田昭『医学の歴史』(講談社学術文庫, 2003).標準的な医学通史.文庫本ですが内容は質,量ともに充実しており,参考書としても使えます.
・茨木保『まんが 医学の歴史』(医学書院, 2008).タイトルの通り漫画ですが,解説の文章も詳しく分かりやすい内容です.著者は産婦人科医で,臨床医ならではの記述も豊富です.
・酒井シヅ『病が語る日本史』(講談社学術文庫, 2008).著者は,日本の医史学の第一人者.縄文時代以来の日本医学史を,疾病史の側面から記述しており,教科書,参考書としてだけでなく読み物としても面白く読めます.
・百島祐貴『ペニシリンはクシャミが生んだ大発見』(平凡社新書,2010,Amazon Kindle版).拙著ですが,医学史上の面白いエピソードを軸にして一般読者向けに解説しました.本書にもその一部を紹介しています.
※本書には、現在では差別的とも捉えられる表現を使用している箇所がありますが,時代背景を考慮した上での表現であり,著者および出版社に差別の意図は一切ございません。