まえがき(『ステップアップ9』より)
わが国に救急救命士制度ができ,四半世紀が経たとうとしています。救急救命士の処置拡大が少しずつなされてきました。平成15年には包括指示下での除細動が許されました。平成16年に,一定の要件を満たした救急救命士に気管挿管が許されました。平成18年には,要件を満たした救急救命士にアドレナリン投与が許されました。平成26年には,要件を満たした救急救命士に,心肺機能停止(CPA)前の意識障害傷病者への血糖測定および低血糖に対するブドウ糖投与が許されました。さらに,CPA前の傷病者への輸液施行が許されました。CPA傷病者がプレホスピタルケアの進歩により救命されることがあることは,一般国民において「珍しいことではない」との認識が浸透したといってよいでしょう。
順風満帆のごとくみえる救急救命士制度の推移のなかで,救急救命士という医療職が今のままでよいか初心に帰って考える必要があるでしょう。マニュアルに従って気道を確保し,換気を行い,必要に応じて胸を押す。必要に応じて酸素投与を行い,必要に応じて輸液・アドレナリン・ブドウ糖投与を行う。それだけではなく,的確な観察を通して傷病者の身体の中で生じている解剖・生理・生化学的異常を察知し,短期的のみならず中長期的な予後を考えての処置・病院選択を行う「真の技量」が問われてきています。傷病者の社会的背景をも考慮する必要があります。
超高齢社会となり病院における多忙な救急医療は,画像診断・血液等検査データ重視の医療へと移行しているのが現状です。傷病者の観察(理学所見をとること)がプレホスピタルケアに委ねられてきています。傷病者の自覚症状を適格に医学用語で表現し,短時間で他覚的所見をとり病院での医療に情報伝達する技量が求められているのです。そのためには,基礎医学をしっかり学び,臨床医学を座学によりきちんと身につけ,現場での病院前救護につなげられる医療人となっている必要があります。上滑りの観察・処置を行う「運び屋」では「チーム医療」の一員とはなれません。高度急性期・急性期からサブアキュートまで種々の重症度・緊急度の傷病者に立ち向かう救急救命士には,総合診療の技量が要求されるのです。五択の国家試験合格に汲々としただけの医療人は,「真の救急医療人」の前では立ちすくむのです。病態生理・生化学を語り合い,理にかなった観察・処置であったかを検証するさいに,深い基礎医学知識,座学学習を基盤とし現場で生かせる臨床医学知識,それなりの救急医療経験をもたない医療人は弱いものです。
あらゆる症例を実際に経験することは不可能です。実際に出会ったことのない傷病であっても,きちんと座学で学んだことのある傷病に対しては,的確な観察・処置が可能です。総合診療といってよい救急救命の医療現場で役立つ医学知識を,総合的かつ深みをもって学ぶことができる書籍はほとんどないのが現状です。後期高齢者の増加を中心とした超高齢社会となり,傷病者を部分ごとにみる医療人ではなく,傷病者を全体として全身を総合的にみる医療人が求められています。その目的をもって,当ステップアップは平成6年以来改訂を重ね「救急救命士ステップアップ9」としてここに新たに上梓します。救急救命士のみならず,地域包括ケアシステムを支える「真の総合診療医療人」にならんと志す若き挑戦者の「座右の書」とならんと,秘かながら自信をもってこの書を世に送り出します。
平成28年10月吉日
松江病院院長
安田 和弘