はじめに
人類は学問を行う.あたりまえのことであるが,これはすでにある学際分野(decipline)においてそれまでに蓄えられた知恵を人々が学んで終わるという営みではない.すなわち,学び,専門を身に着け,次の分野を切り拓いて新しい知恵を発見することを通じて社会を豊かなものにしてきた.
生物学は近年急速に発展している.最近は20年前までは無縁と考えられてきた数学,物理,データサイエンス,人工知能といった分野との融合がさまざまな計測技術の登場によって加速され,また生物学もそれと融合を強めつつあるこれらの分野にも新しい課題をもたらしている.発生生物学,構造生物学,進化生物学というように,それぞれの研究を位置付けるために長く用いられているラベルはあるが,10年前の知識で成り立つような研究というのはほとんどない.人によっては,次々と新しい知恵を切り拓いていくような研究ができるのは一部の才能に溢れた科学者だけのように考えるかもしれないが,決してそうではない.しなやかに,大きく発展している分野であるからこそ,誰もがそこで溢れている事柄のなかからおもしろいことを見つけられる.さまざまな知識や技術へのアクセシビリティーが上がる中で,今日では誰もが世界の科学の発展をうねらせるチャンスをもっている.
本書は生物学における未来を読み,創る力を養うために,バイオテクノロジーを知ることに主眼をおいて書かれた.これまでの生物学の歴史のなかで科学者たちはその慧眼と努力によってさまざまな発見をし,知識を押し拡げてきた.一方で,紛れもなく,これを支えてきたのは技術であり,顕微鏡,構造解析技術,DNA解析技術などをあげることができる.また,ときには新しく発見された生命現象が次の新しい技術を生み出して,次の発見をもたらしてきた.このような生物学に独特な美しいサイクルには,例えばDNAの複製機構とDNAポリメラーゼの発見がPCR法の発明につながり,それがDNAシークエンシング法の発明につながり,今日私たちがゲノム情報を基礎とする研究をできるというものがある.また,進化生物学で生み出された考え方が発生生物学の技術開発に応用されるというような,アイディアの水平伝播もある.
もちろん生命現象の新しい発見は狙ってできるものではない.しかしながら「このような技術が生まれると,このような生命現象に挑戦できるようになる」と想像して,その実現を狙うことはできる.また,見渡してみると,いきなり一人の天才がこれまで誰も見たことがなかったような独創的な発明をして世界を驚かすというようなことはほとんどない.誰かの小さな発見やそれまでの技術を丁寧に理解して組み合わせることによって,他の開発者達に「ああ,その手があったか」と思わせるような技術が生まれるということがほとんどである.
生物学における技術は,一見無関係に見えても,それらが発明される背景は見事に連関している.また科学者の人間的なつながりがこれとともにある(付録2「本書に登場する研究グループ(主宰者)相関図」参照).その世界にどっぷりと浸かることはおもしろく,それが私達自身のことを含めた生命の神秘に迫るものであればなおさらである.特に近年は,DNAシークエンシング,DNA合成,ゲノム編集,超解像イメージングなどの技術が加速的に発展しており,従来の遺伝学の枠組みを超えて細胞や生物の機能を大胆に改変する合成生物学の技術と,それを利用した生命現象の高度な観察が可能になってきた.生物機能に介入するようなテクノロジーの開発は,不確定要素の多い細胞あるいは分子のふるまいを制御する必要があり難しいが「ここはこういうふうに動いているのかもしれない」と想像し,その裏をとりながら目的の技術を実現できたときは,生命に触れてそのシステムも理解したという喜びを同時に得ることができる.
テクノロジーはビジョンをつくり,発明と発見を引き出し,イノベーションを引き起こす.
世界にはすばらしいテクノロジーを生み出している科学者たちが大勢いて次の生物学をつくり出そうとしている.一方で,どれだけの科学者や学生が自分にもできると考え,大胆なビジョンをもち,その価値を想像しながら挑戦できることを知っているだろうか?本書は私たちの研究室が東京大学先端科学技術研究センターにある時に,月刊「実験医学」誌に「ブレークスルーを狙うバイオテクノロジー」(2018年11月号~2021年1月号掲載,編/東京大学先端科学技術研究センター 谷内江研究室)として研究室のメンバーとともに連載していた原稿を再編したものである.増山 七海さん(第2章),関 元昭さん(第3章,第4章),山本- エヴァンス 楠さん(第5章), 石黒 宗さん(第6章, 第14章, 第15章), 森 秀人さん(第6章,第7章,第8章,第9章,第10章),坂田 莉奈さん(第8章,第9章,第10章),今野 直輝さん(第11章,第12章),松尾 仁嗣さん(第13章),木島 佑輔さん(第15章)とともに,一人でも多くの研究者とその卵をこのすばらしい世界に引き込むことを目的としてまとめた.その後,研究室はカナダ・バンクーバーのブリティッシュコロンビア大学に移転したが,このうち何人かはバンクーバーで活躍してくれているし,その他のメンバーは研究拠点を別にして活躍を続けている.
本書の内容は,高校生物あるいは大学の教養課程における生物の知識があれば理解できるように努めたが,ゲノム編集,1細胞解析,人工遺伝子回路などと今の教科書では十分に触れられていない内容が次々と登場するので生物学の新しい学徒の皆さんは少々面を食らうかもしれない.しかしながら,プロの研究者は早く進む研究分野の流れの中でもっと良くわからない論文という形で情報を浴び続け,それを楽しんでいるということを思い出し,背伸びをして身を放り込んでしまって欲しい(連載執筆当時,何人かの著者は学部生であったことも参考になるかもしれない).
本書の出版にあたって慶應義塾大学医学部教授で日本医療研究開発機構(AMED)初代理事長の末松誠先生,シンシナティ小児病院の武部貴則先生から推薦のお言葉を頂いた.説明するまでもなく末松先生はガスバイオロジーを,武部先生はオルガノイド生物学を牽引されてこられた著名な研究者で,お二人らしい視点で本書を捉えて頂いて本当に嬉しい.羊土社の庄子美紀さん,本多正徳さんにはさまざまなアドバイスを頂いた.心から感謝している.特に「実験医学」連載での編集担当者であった本多氏には頭が上がらない.連載中は締め切りに遅れることや原稿を脱稿できない月が多くあり大変なご迷惑をかけた.本多氏は本書のアートワークもいくつか作製して下さり,稀有な才能で連載を支えて頂いた.
本書「超生物学―次のX」は次の5年間は生物学におけて築かれる一分野の預言書として新しいだろう.さらに次の5年は,(本書の内容が本当に未来の生物学を推進している世界において)技術とビジョンが未来を作れるということを確認するためのものになることを期待する.また本書に触発された読者の皆さん自身が,永久に抜け出せなくなるような強烈におもしろい次の生物学を自分達自身で作り始めることを願う―――
2021年8月 バンクーバーにて
谷内江 望