本書は、感染症治療学のスペシャリストである岩田健太郎氏によって書かれた漢方の入門書であると同時に、著者が、漢方と出会い、触れ合い、分かり合おうとした体験記とも言うべき書である。
ヒトが自分の慣れ親しんだ思考回路と異なる概念に出会った時の反応は、おおよそ次の三つのタイプに分類される。この世に生まれ出た赤ん坊が目を見開いて世界を見るように新たな興味の対象として捉えるか、あるいは、まるで自分を侵食する邪敵のように拒絶し排除するか、あるいは、その概念がまるでこの世に存在しないかのごとくに無視するか。岩田氏は間違いなく、第一のタイプである。もちろん、彼は、赤ん坊どころではなく、「知の収集家」といってもよいほどに医学以外にもさまざまな分野の知識を持ち、発信しつづけている巨人であるが、巨人であるがゆえに、「知」に対する姿勢は常に謙虚で慎重である。
例えば、岩田氏は本書の中で、現象学者のフッサールが用いた「エポケー」という古代ギリシャ語を用いて、漢方理論や診断において、自らが理解しかねる、腑に落ちない部分を「判断保留」とした上で前に進む方法を紹介している(「エポケー」:私にとっては高校時代に大好きだった倫理社会の先生に教えてもらった懐かしい言葉)。漢方基礎理論や診断学においては、自然現象を観察して得られた情報と、観念的、哲学的な概念が夾雑している部分が多く、いわゆる西洋科学的なアプローチのみでは整理・理解が困難である場面が少なくない。これは西洋医学を学んだ医師達が漢方医学を学ぼうとする際に、最初に遭遇するハードルであるが、すべての者がクリアできるものではなく、そこで逡巡し引き返すも者もおれば、このハードルを無理に越えようとして傷を負う者もいるであろう。ハードルの存在を知っただけで近づかないようにする者もいるかもしれない。本書において、著者は、この障害をいったん「エポケー(留保)」としておくことで、言い換えれば、ハードルをいったん迂回することで、さらにその奥にある重要なものに辿り着こうという姿勢の必要性を説いている。
さらに、四物湯と四逆散と四君子湯って似ているけど全然別の薬です、というような、知ったかぶりをしがちな似非専門家では思いもつかないような言葉を用いて、著者は、漢方の初学者が遭遇する最初のハードル、それも、「余り重要でないのに、つい、つまずいてしまいがちな」障害の存在をやさしく指摘し、かつ、それを取り除いてくれているのである。
破天荒だとされた談志の高座が誰にもまねのできないような丁寧で形式美の備わったお辞儀で始まり終わるのを思い出させるが如く、一見、駄洒落と挿話が盛りだくさんの本書の中で、岩田氏は読者に対して謙虚であり親切丁寧なのである。
そしてポリファーマシーに対する一つの「解」が漢方薬にあることや、時代とともに漢方薬の使われ方が変わっていくべきであることなど、「漢方を現代に生かす」啓蒙の視点も忘れられてはいない。そして、後半の各論部分においては、製品番号順に医療用漢方エキス製剤についての解説を試みている。その内容は、生薬構成を中心に、文献的考察や古人の口訣に加え、自己の経験、さらにはEBM などをちりばめたものである。処方を理解するのに、まずは生薬を理解し、その構成から処方の作用ベクトルを知るという方法論は、岩田氏の言葉を借りれば、構造主義的理解ということになるのであろうが、漢方処方を勉強する方法論としては個人的にも大賛成である。日本漢方においては、ややもすると「まず古典を読み、先人の口訣を学ぶ」ことが正しい勉強方法であるとされがちであるが、方剤とは「まず生薬ありき」なのであり、生薬の効能を理解し、その組み合わせとしての処方がどのような作用ベクトルを持つのかを理解していく方法は、より短時間で多くの方剤に対する正しい理解と応用へと導いてくれる方法論である。もちろん、古典の条文や先人の口訣の勉強が必要なことは言うまでもないが、まずは生薬の効能と構成を学んだ後でも十分であると考えている。
「師匠の門に弟子入りし、師匠について傷寒論を読み習う」という、まるで、古典芸能のような学習方式を取ってきた従来の漢方家には決して書けないであろう本書は、多くの若い医師達にとって恰好の入門書になり得ると同時に、西洋医学のトップランナーでありつつ漢方の心を理解した、著者が言うところのジェネシャリストであるからこその内容が、漢方の専門家にとっても大いに糧になるものであると確信する。
本書の冒頭で、岩田氏が漢方に接した最初のきっかけが、島根県の故阿部勝利先生との出会いであったことが紹介されている。実は私自身、約25 年前に阿部先生と台湾への視察旅行をご一緒したことがあり、その訥々とした語り口と漢方に向き合う真摯な姿勢から、私にとって「僕の好きな先生」のお一人であったのだが、今回、岩田健太郎氏から御著書の監修を依頼され、序文まで書かせていただいたことに、故人につながる不思議なご縁を感じている。
2018年1月
西本 隆