はじめに：AIDS is losing

1980年初頭に新しい疾患として登場したHIV/AIDSは，現在も社会，経済，政治，宗教，道徳といったあらゆる生活領域で大きなインパクトを与え続けている．この恐るべき伝染性疾患の全世界の感染者数は3,600万人，2016年だけで総死亡者数は100万，新規感染者数は180万を超える（2017 UNAIDS）．

しかし，複数の抗HIV剤を用いた多剤併用療法〔combined antiretroviral therapy（ART）〕によって，HIV/AIDSの治療は瞠目する程の進歩を遂げ，その病態は著しい改善をみている．すでにHIV/AIDSの治療の歴史は，迅速な薬剤開発，一年に数度もupdateされる「治療ガイドライン」，治療法の継続的な進歩と治療環境の改善など，これまでの医学の歴史のなかでもっともドラマチックな経過をたどってきた最たるものとなっている．そのような“成功”をHIV/AIDSの治療分野にもたらした最大の理由は，HIV/AIDS治療薬の開発がその端緒から特定の分子を標的とした“分子標的治療薬”として進められたことにつきる．この治療分野に大きな進展をもたらしたもうひとつの理由は，1980年代に入って急速に拡大したHIV感染症のためにつぎつぎと死亡していく多くの，しかも主として若年層の男女を目の前にして，基礎生物学・医学が，この感染症についての理解を如何に深めるかよりも，何を感染者にもたらしうるかを厳しく問われつづけてきたからである．はたして，グローバルなARTのscale－upはAIDS関連死の世界的減少（48％）と乳幼児・小児新規感染の激減（～67％）をもたらし（2017 UNAIDS），すくなくとも先進工業国での感染者の平均余命は適正なARTが行われるかぎり非感染者のそれに比肩されるまでとなり，またsexual contactsなどによる新規感染の阻止も可能となった．

ARTの先鞭となった最初の3剤azidothymidine，didanosine，zalcitabineは，いずれも逆転写酵素を標的として考案・同定・開発された薬剤である．HIV/AIDSに対する治療薬開発で矢継ぎ早の成功をもたらした“分子標的”アプローチは，インフルエンザや白血病に対する分子標的治療薬開発のモデルケースとなった．C型肝炎の治癒の実現とB型肝炎治療のめざましい進展は，HIV感染症に対する治療薬開発の経験からの文字通りの“派生物spin－off”であるのは特筆してよい．

本特集では，いまも進化を続けるARTとそれを構成するそれぞれのクラスの抗HIV薬の基礎知識と最新の知見を紹介するとともに，ARTがもたらしたHIV/AIDS領域での成果と課題，そして今後の展望について概括する．

満屋 裕明
国立国際医療研究センター研究所 所長